⑤ ぬるくなった瓶
相棒は木炭の粉を払った閲覧用の地図を巻き直し、四月、七月、秋の記録を順番に重ねた。書類綴りへ戻し、麻紐を元の通りに縛り直す。
受付で地図と書類綴りを返すと、老司書は何も言わず、三十年分の埃が染みついた帳簿へ受領印を押した。そのまま書類を抱え、薄暗い書架の奥へ消えていく。
地下保管庫の重い樫の扉を開けると、冷え切った夜風が二人の外套を揺らした。
夜更けの旧市街は、しんと静まり返っている。
石畳の路地の先には、二台の自販機が並んでいた。
一台は、魔導灯を内蔵した背の高い霊水用の自販機。もう一台は、その肩にも届かない古い煙草の自販機だった。色褪せた銘柄札を並べた低い鉄の箱が、街路の魔導灯に照らされている。
「結局、三十年前の怪人の正体は分からずじまいだったな」
相棒は肩をすくめながら息を吐いた。白い息が夜気へ溶けていく。
「まあ、どこまでが一つの事件で、どこからが別だったのか。今となっては確かめようがないってことだけは分かったが」
「ねえ」
ノラが二台の自販機の前で足を止めた。
「何だ?」
「四月の、最初の人」
ノラは外套のポケットへ手を入れたまま、低い煙草自販機の天板を見た。
「もし、あれが本当に誰かの置き忘れだったとしたらね」
「……ああ」
「その人は、自分の小瓶をどこへ落としたと思ったのかな」
相棒は立ち止まり、ノラを見た。
「作業場に置いてきたと思ったのか。途中の道端で落としたと思ったのか。それとも、『あ、自販機の上に置いてきちゃった』って、どこかで思い出したのかな」
ノラは自販機の横へ回り込み、平らな鉄の天板を指先でなぞった。
「思い出したなら、取りに戻ったのかな。戻ったときにはもうなくて、『誰かが片付けたのかな』って諦めて帰ったのかな」
指先についた薄い埃を、親指でこする。
「それとも、最初から戻る気なんてなくて、新しい薬を補充して、その日のうちに全部忘れちゃったのかな」
夜風が、人気のない路地を吹き抜けていく。
相棒は答えられなかった。調書のどこにも、そんな人物の姿は書かれていない。
「ニュースを見て、自分の瓶だと気づいたのかな。気づいて、震え上がって、ずっと黙って生き続けたのかな」
ノラは天板から指を離した。
「それとも……あれが本当に置き忘れだったとしたら、その人は死ぬまで、自分の瓶が怪人の始まりになったなんて、夢にも思わなかったのかな」
「分からないな」
「うん。分からないね」
ノラは指先を外套の裾で拭い、鞄から記録庫へ来る途中で買った滋養薬の瓶を取り出した。
手のひらの中で転がす。
氷結呪文の冷気はとうに抜け、あのとき取り出し口に残されていた瓶と同じ、生ぬるい温度になっていた。
「帰ろ。お腹空いた」
ノラは瓶を煙草自販機の天板へ置き、空いた手で鞄の中を探った。羊皮紙の地図を取り出して広げると、迷いのない足取りで夜の路地を歩き出す。
「おい、そっちは行き止まりだ」
相棒が呼び止めた。
ノラの足が止まる。
「それから、瓶」
振り返ったノラの向こうで、茶色い瓶が煙草自販機の上に残されていた。
街路の魔導灯を受け、王冠のような金属の蓋が鈍く光っている。低い天板に置かれた瓶は、路地からでもよく見えた。
ノラは自販機まで戻り、瓶を眺めた。
「見えるね」
「何がだ?」
「自販機の上に置いた瓶」
「そりゃ見えるだろ。こんなに低いんだから」
「昔も、こういうのがあちこちにあった?」
「煙草の自販機ならな。ただし、三十年前の現場にあった機械が同じ高さだったかは分からないぞ」
「うん」
ノラは瓶を取り上げた。
「でも、忘れることはあるんだね」
「おまえが今、忘れただけだ」
「そうだね」
「四月の瓶も同じだった、とは言えないからな」
「分かってるよ」
ノラは瓶を鞄へ戻し、もう一度地図を広げた。
「じゃあ、こっち?」
「反対だ」
相棒はため息をつき、地図を半回転させた。
やっぱり、上下が逆だった。




