① 忘れ物
結局、王立記録庫に着いたのは、街の魔導灯がすべて夜間点灯へ切り替わった後だった。
「だから言っただろ。橋を渡る前に左だって」
「あそこの標識、文字の彫りが浅くて読めなかったのよ。整備局の手抜きね」
「地図を逆さまに見ていたやつが、どの口で言うんだ」
文句を言い合う二人を迎えたのは、旧市街の外れにある地下保管庫の重い樫の扉だった。
時効を迎えた事件記録や、誰にも引き取り手のない古い書類が眠るこの場所は、昼間でも夜のように暗い。カビと古い羊皮紙、それに防虫用の乾燥香草の匂いが、澱のように沈んでいる。
閲覧用の長い机へ老司書が置いたのは、麻紐で乱暴に縛られた分厚い書類綴りだった。
表紙には、煤けたインクで当時の治安隊がつけた題名が残っている。
――『王暦四十年特務事案・路傍連続投毒事件調書』。
相棒は顔をしかめながら、積もった埃を手で払った。
「三十年も前の、しかも時効で処理が終わった事件だぞ。今さら引っ張り出して、どうする気だ?」
「どうもしないよ。見るだけ」
ノラは椅子へ腰掛け、鞄からルーペと丸眼鏡を取り出した。
相棒は書類綴りを見下ろしたまま、腕を組む。
「世間じゃ、こいつは『街を震撼させた希代の毒薬魔』ってことになってる。自販機の上や取り出し口へ、未開封に見えるよう蓋を戻した滋養薬の瓶を置いて回った、姿なき怪人だ」
「怪人?」
「ああ。死者は十三人。当時の治安隊は国中の自販機を見張らせたが、影すら掴めなかった。俺も子供の頃、夜に出歩くと毒瓶を持った怪人に連れていかれるって脅されたもんさ」
「瓶を置くだけなのに、子供も連れていくの?」
「そこはどうでもいい」
ノラは麻紐を解き、書類綴りを開いた。
一番上には、各地で人が倒れた秋の事件がまとめられていた。毒薬魔の異常性、計画性、残忍さ。似たような言葉が何度も並んでいる。
ノラは数枚眺めただけで、次々と紙をめくった。
「おい、読まないのか? 被害者が一番多かった時期だぞ」
「あとで見る。最初はどこ?」
書類をめくる手は止まらない。
やがて、分厚い束の一番下から、黄色く変色して角の擦り切れた記録が現れた。
日付は、四月の終わり頃。
事件が国中を騒がせる四か月以上前、西の地方都市で起きた最初の死亡事案だった。
荷運びの男が、自販機の上にあった滋養薬の瓶を持ち帰り、翌朝飲んだ。直後に倒れ、瓶の中からは農業用の毒薬が検出された。
ノラは現場見分調書と、回収された瓶のスケッチを机の上へ並べた。
「これが最初か」
相棒が横から覗き込む。
「うん」
ノラは丸眼鏡を押し上げ、調書の一節を指でなぞった。
「犯人は強い殺意を持ち、被害者に未開封の滋養薬だと思わせるため、精巧な偽装を施したと推認される」
「一度蓋を開けて毒を入れたあと、未開封に見えるよう閉め直したんだ。だから被害者は気づかずに飲んだ」
「どうして?」
「何がだ」
「どうして、騙すために閉めたって分かったの?」
相棒は調書を指差した。
「ここに書いてあるだろ。未開封に見せるため、蓋を潰さないよう、慎重に回して開け直した痕跡があったんだ」
「蓋は潰さないよ」
「は?」
「潰したら、閉まらないもの」
ノラは瓶のスケッチを相棒の前へ向けた。
「空き瓶、使ったことない?」
「何に使うんだ」
「油とか、薬とか。少しだけ持っていきたいとき」
「……まあ、ないとは言わないが」
「そのとき、蓋を力任せにひん曲げて開ける?」
「普通に回して開けるだろ。変形させたら閉まらなくなる」
「閉まらなかったら?」
「中身が漏れる」
「うん。だから、こぼれないようにぎゅっと閉めるよね」
「蓋は壊さないよ」
「は?」
「壊したら、閉まらないもの」
相棒は答えなかった。
ノラは調書と瓶のスケッチを交互に見た。
「薬を入れて持ち歩くために、空いた滋養薬の瓶を使った。漏れたら困るから、蓋を壊さないように開けて、入れたあとはしっかり閉めた」
「それを自販機の上に置いたのか?」
「お金を出すときに、ちょっと置いたのかもしれない」
「そのまま忘れた?」
「うん」
相棒はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「想像だろ」
「そうだよ」
ノラはあっさり頷いた。
「治安隊のも想像だもの」
「調書には、犯人が騙すために細工したと――」
「誰か、置くところを見たの?」
「いや」
「瓶を拾ったとき、蓋を調べた人は?」
「被害者が持ち帰ったんだ。治安隊が回収したのは、そのあとだ」
「じゃあ、誰も見てないね」
ノラは二つの記録を指で示した。
「私は忘れ物だと思った。治安隊は罠だと思った。どっちも、置いたところは見てない」
「だが、その後も同じ事件が起きた」
「四か月もあとにね」
ノラは、四月を指先で叩いた。
「最初の瓶を置いた人は、誰も殺すつもりなんてなかったかもしれない。ただ、置き忘れたのかもしれない」
「言い切るのか?」
「ううん。そういう考え方もある」
ノラは秋の記録が束ねられた書類へ目を移した。
「それなのに、どうして全部同じ人がやったことになったんだろうね?」




