① 酒場の端と、歪んだ噂
夜の酒場は、安酒と焼いた肉の匂いで満ちていた。
笑い声が飛び交う中、ノラはカウンターの端で古い羊皮紙を広げている。領地役人が出した触書と、事件を扱った瓦版。どれも一年前の日付だった。
一枚だけ、上下が逆さまになっている。
向かいに座る相棒は気付いていたが、黙って麦酒を飲んだ。指摘しても、ノラは読めると言い張る。以前、地図を逆さまに持ったまま目的地へ着いたことがあるため、読めていないとも断言できなかった。
「ねえ、相棒」
ノラが氷の浮いた水を指先で揺らす。
「この一家心中って話、パズルのおさまりが悪いんだよね」
相棒は嫌そうに顔を上げた。
「また始まった」
「まだ何も言ってないよ」
「言う前から分かる。一年前、薬草商の一家四人と使い魔が、魔導車ごと姿を消した。先日、領地外れの貯水湖から全員が発見され、役人は一家心中として処理した。もう終わった事件だ」
「終わったことになってる事件でしょ?」
「同じだ」
「全然違うよ」
ノラは触書の一文を指で叩いた。
「まず、使い魔」
そこには、家族が愛する使い魔を残していけず、共に入水したものと思われる、と書かれていた。
「家族に懐いていた小型魔獣だ。最期も一緒にいたかったんだろう」
「それは誰が聞いたの?」
「何?」
「使い魔に。『一緒に死にたいです』って」
相棒は眉間を押さえた。
「聞けるわけがないだろう」
「だよね。だったら、使い魔が同乗していたことは事実でも、連れていった理由は役人さんの想像だよ」
ノラは次の紙へ指を移した。
「事件の夜、近所では鳴き声も争う音も聞かれていない。人懐っこい使い魔だったそうだけど、家族が襲われたら何の反応もしないのかな」
「家族が自分の意思で車に乗ったなら、騒ぐ理由もない」
「うん。家族と一緒に眠っていたなら、やっぱり騒がない。どっちでも説明できるね」
「……お前は何を言いたいんだ」
「まだ、どちらとも決められないってこと」
相棒の表情が早くも疲れ始めた。
「次は、娘さんの同僚」
事件の前夜、娘から通信魔導具で連絡を受け、翌日からの旅行を楽しみにしていたと証言した女性がいる。
「家族全員が覚悟していた心中なら、前の晩まで旅行を楽しみにしていたのは変じゃない?」
「決意を隠していたのかもしれない」
「その連絡自体、魔導局の台帳には残ってないけどね」
「記録の不備だろう」
「そうかもしれない。同僚が記憶違いをしているのかもしれないし、嘘をついたのかもしれない。どれも証明できない」
ノラは紙の束をめくり、首を傾げた。
「なのに、一番近くにいたはずの婚約者の証言は、どこにもない」
娘には婚約者がいた。日頃の様子も、旅行の予定も、家族との関係も知っていたはずだが、資料には名前さえほとんど出てこない。
「証言していても、公表されていないだけかもしれない」
「うん。そうかもしれない」
「さっきから、そればかりだな」
「だって、分からないもの」
「では、なぜそんなに嬉しそうなんだ」
ノラは紙を持ったまま立ち上がった。
「分からないのに、『一家心中』だけ決まってるのが面白いから」
「待て。どこへ行く」
「貯水湖」
「今から?」
「明日の朝」
「では、なぜ立った」
ノラはしばらく黙り、座り直した。
「気持ちだけ先に」
「迷子より先に、時間の感覚を何とかしろ」




