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③ 聞かれなかった声

「これを見ろ」


記録室を出ようとした二人を、年老いた職員が呼び止めた。


奥の棚から、紐で綴じられた紙束を運んでくる。


青年の両親と友人達が集めた、再調査を求める嘆願書だった。


頁を開く。


名前が並んでいた。


村の者。


隣村の者。


仕事仲間。


青年に助けられた者。


青年と笑った者。


青年が、人の家を覗くために真冬の浄化槽へ入るような男ではないと信じた者。


数え切れない声が、紙の上に残っていた。


「誰も疑わなかったわけじゃないんだ」


ノラが呟く。


年老いた職員は、ゆっくりと首を振った。


「疑ったよ」


「事故だってことを?」


「それもある」


老人は嘆願書へ手を置いた。


「それ以上に、あいつがそんな男だったと決められたことをな」


青年の死因だけではない。


死んだ理由まで、ひとつの記録にされた。


本人は、もう否定できない。


「再調査は?」


「行われなかった」


「どうして?」


「事故は事故だ。それで終わりだった」


老人は記録室の扉を見た。


誰もいないことを確かめてから、声を落とす。


「あいつは、村の水源について調べていた」


相棒の目が動いた。


ノラは動かなかった。


村外れの山には、希少な鉱石が眠っている。


採掘権を得ようとする商会と、水源が汚れることを恐れる住民との間で、長く揉め事が続いていた。


青年は自警団の仕事を通じ、夜間に山へ入る荷車の数が、役場へ届けられた数と合わないことに気付いた。


誰が許可を出したのか。


採掘された鉱石は、どこへ運ばれたのか。


代金は、村の帳簿へ正しく記録されているのか。


青年は、それを調べていたという。


「鉱脈の話には食いつかないのか」


相棒が尋ねる。


「噂でしょ」


「その記録は?」


ノラが尋ねる。


「消えた」


ノラの目が、初めて老人へ向いた。


「いつ?」


「あいつがいなくなった後だ」


老人は、ノラが最初に触れた棚の隙間を示した。


他の年の帳面は揃っている。


青年が亡くなった年の採掘許可簿だけがない。


「紛失したと聞いた」


「誰が最後に持っていたんですか?」


「分からん」


「紛失届は?」


「ない」


「写しは?」


「それもない」


ノラは空いた棚を見た。


「さっき、役人さんは事件と関係ないって言いました」


「ああ」


「帳面が何だったのか、私はまだ聞いてなかったのに」


老人は目を伏せた。


事故死した青年。


消えた帳簿。


受理されなかった嘆願。


それだけなら、偶然を並べた話にもできる。


だが、偶然はいつも、同じ者達にとって都合よく働いていた。


「役人さんは、この帳簿のことを?」


「知っていた」


「調べた?」


老人は答えなかった。


その沈黙だけで、十分だった。


紙束は厚かった。


だが、どれだけ名が増えても、役人の記録は一行も変わらなかった。


覗き目的の侵入。


事故死。


それだけが公の事実として残った。


外へ出ると、細かな雪が降り始めていた。


相棒は役場の屋根を振り返る。


「村の水源と鉱脈を巡る争いがあった」


「うん」


「青年は帳簿の不一致を調べていた」


「そうみたいだね」


「その帳簿は、青年が死んだ後に消えた」


「うん」


「誰かに殺されたとは思わないのか」


「証拠がないよ」


「では、事故だったと?」


「それも、分からない」


相棒は足を止めた。


「お前は何のために調べたんだ」


ノラも立ち止まる。


「二つある」


ノラは指を一本立てた。


「この人の名前を戻すため」


もう一本。


「それと、事故という蓋の下に、何が隠れたのかを見るため」


相棒は答えなかった。


「覗き魔だったと証明できない。事故だったとも、殺されたとも、今は分からない」


ノラは嘆願書の写しを抱え直した。


「だったら、分からないところまで戻さなきゃ」


「帳簿のことは、どうする」


「事故とは別の話だったのかもしれない」


「本当にそう思っているのか」


「思ってないよ」


ノラは平然と答えた。


「でも、物証がない」


「なら、何も言えない」


「言えることはある」


ノラは役場を振り返った。


「青年の死を事故にしたことで、帳簿を調べる理由まで消えた」

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