第9話 あの人は救えない。それでも、あの母子だけは、必ず
その報せは、昼過ぎに、城の空気を一変させた。
物見櫓から、早馬が駆け込んできた。伝令が、息を切らして本丸へ走る。奥にまで、ざわめきが波のように広がった。明日香は、膳を運ぶ手を止めて、廊下の隅で耳を澄ませた。
漏れ聞こえてくる言葉が、切れぎれに、耳を打つ。
関白の大軍が、ついに関東へなだれ込んだ。箱根の関を越え、北条方の城が、次々と囲まれている。降伏する城、攻め落とされる城。小田原の本城も、すでに二十万に包囲された。もう、後詰めは望めない。この地の北条方は、孤立した。
奥の女たちが、口々に不安を漏らしはじめた。誰かが仏壇に灯明をあげ、誰かが幼子を強く抱き寄せる。表からは、慌ただしく走る足音と、具足の触れ合う金属の音が、絶え間なく響いてくる。城全体が、来るべきものへ向けて、じりじりと身を硬くしていくのが、肌で分かった。
明日香の背に、冷たいものが走った。
頭の底に沈んでいた歴史の記憶と、今、目の前で起きている現実とが、ついに、一本の線で繋がった。天正十八年。豊臣秀吉の、小田原征伐。北条は、この年に滅ぶ。教科書に載っていた、たった一行の結末が、今、生々しい早馬の土埃となって、この城へ駆け込んできたのだ。
もう、疑いようはなかった。この城は、落ちる。
いつ、とまでは、分からない。歴史は、この名もなき支城が何月何日に落ちたかなど、記していない。だが、季節が教えてくれた。今は、三月の末。梅がとうに散り、じきに田植えの季節が来る。大軍が関東を席巻すれば、こんな小さな支城は、長くはもたない。梅雨が明けるころには――遅くとも、この夏のうちには、すべてが終わる。
残された時間は、あと百日あまり。
その数字を、明日香は、廊下の柱に手をついて、噛みしめた。カウントダウンの、一つ目の砂が、落ちた音がした気がした。
不思議と、取り乱しはしなかった。数日前までなら、この報せに、また「変えなければ」と焦り、無謀に空回りしていたに違いない。だが今は、違った。落ちる。それはもう、動かせない。ならば、その動かせない前提の上で、自分にできることを、始めるだけだ。足もとで渦巻いていた絶望が、少しずつ、静かな決意へと、形を変えていく。
夕刻、明日香は奥の庭へ回った。
そこに、いつもの光景があった。縁側に座る側室の志乃。その足もとで、千代が、拾った石を並べて遊んでいる。夕日が、母子の影を長く伸ばしていた。
「ちよの、おしろ」
小石を積み上げて、千代が得意げに言う。歪んで、今にも崩れそうな、小さな石の城。志乃が、めずらしく、かすかに口もとをほころばせた。その一瞬の、母の柔らかな表情を、明日香は、胸に刻んだ。
この二人だ、と思った。
心を閉ざした若い側室と、滅びを知らずに石の城を積む幼子。歴史は、この母子の結末を、一文字も記していない。ならば、その空白に、書き込めるはずだ。「生き延びた」と。この二人だけは、何があっても、必ず、落城の前に逃がす。守り切る。
積み木の城が、千代の手のひとつきで、あっけなく崩れた。千代は、きゃっと笑って、また積みはじめる。何度でも、崩れては、また積む。その姿が、なぜだか、明日香の目を、熱くした。
崩れることを知らないから、この子は笑っていられる。この鴉ノ端の城も、いずれ、あの石の城と同じに、あっけなく崩れる。だが千代は、それを知らない。知らないままで、いい。この子には、崩れたあとの世界で、もう一度、笑って城を積んでほしかった。遠い、安全な土地で。
崩れる城の中で、この子だけは。せめて、この子だけは。
夜。寝つけぬまま、明日香は水を汲みに、井戸端へ出た。
雲間から、細い月が出ていた。昼の喧騒が嘘のように、城は静まりかえっている。その静けさの底に、滅びの予感だけが、重く沈んでいた。
井戸の縁に手をかけたとき、背後に、人の気配があった。
振り返って、明日香は息を呑んだ。藍の直垂の、若い武士が、一人、月の下に立っていた。城主、氏久。評定でも眠れぬのか、供も連れず、一人で庭を歩いていたらしい。あまりに近くに、あまりに突然に、救えぬはずの人が、そこにいた。
明日香は、慌ててその場に膝をつき、深く頭を垂れた。
「面を上げよ」
低く、静かな声だった。おそるおそる顔を上げると、氏久の目が、じっと桔梗を見ていた。咎める色は、なかった。
「そなたか。……先ごろ、老いた下女を、独りで看取ってやったというのは」
心の臓が、跳ねた。すぎのことが、城主の耳にまで届いていたのか。おおかた、於松あたりが、話したのだろう。
「差し出た真似を、いたしました」
「いや」
氏久は、静かに首を振った。月の光が、その若い、けれど疲れの滲んだ横顔を、白く照らしている。
「誰も顧みぬ者の手を、しまいまで握ってやる。……武士には、できぬことだ。よい行いをした。名は、なんと申す」
「……桔梗と、申します」
「桔梗、か」
氏久が、その名を、ゆっくりと繰り返した。噛みしめるように、一音ずつ。ただの下女の名を、この人は、たしかに一人の人間の名として、口にした。
氏久は、少し間を置いて、夜空を見上げた。
「この城は、もう長くはあるまい」
ぽつりと、こぼれた言葉だった。そなたに言うことではないな、と言いたげに、口をつぐむ。城主自身が、負けを、滅びを、誰より深く悟っているのだ。それでも逃げぬと決めた者の、静かな諦めが、その横顔に滲んでいた。明日香は、かける言葉を持たなかった。あなたは死ぬと決まっている、などと、言えるはずもない。ただ、この人が抱える孤独の深さだけが、痛いほど、伝わってきた。
「よい名だ。覚えておこう」
それだけ言うと、氏久は再び、夜の庭へと歩き去っていった。負け戦を悟りながら、逃げることを選ばぬ者の、まっすぐな背中。その背中を見送りながら、明日香の胸を、鋭い痛みが貫いた。
この人は、救えない。
城主であるこの人の死は、落城と分かちがたく結びついた、記録に刻まれた運命だ。手を伸ばせば、災いを早めるだけ。名を覚えてくれたその人を、自分は、看取ることさえ、叶うかどうか。最も救いたい人が、最も救えない。その残酷さが、月明かりの下で、はっきりと形を持った。
落城まで、あと百日あまり。
明日香は、井戸の縁を、きつく握った。あの人は、救えない。それでも――志乃と千代だけは、必ず。
刻限は、刻一刻と迫っている。なのに、救い出す術は、まだ、何ひとつなかった。




