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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第8話 歴史は変えない。でも、救う相手は、わたしが選ぶ

夜、割り当てられた狭い部屋で、明日香は柳行李の蓋を開けた。


取り出したのは、元の桔梗が遺した、あの曇った手鏡だった。銅の鏡面を、袖で拭う。灯した油皿の頼りない光の中に、痩せた娘の顔が、うっすらと浮かび上がった。頬のこけた、目ばかり大きな、十七の娘。桔梗の顔であり、今は、明日香の顔でもある。


鏡の中の娘を、じっと見つめる。


この顔にも、もう、少しは見慣れた。最初は、鏡を覗くたびに他人がそこにいて、ぞっとしたものだ。今は、この痩せた娘の顔が、鏡の中から、まっすぐに見返してくる。生きろ、と告げているのか。覚えていてくれ、と願っているのか。鏡の娘の眼差しは、その両方を宿しているかに見えた。


この鏡は、里に文を書けなかった娘の、たった一つの宝物だった。貧しさの中で、家族を思いながら死んでいった、いや、消えていった娘。その顔を借りて、今、自分がここにいる。ならば、この娘の生きられなかったぶんまで、意味のあることをしなければ。そう思うと、鏡を持つ手に、自然と力がこもった。


「聞いて」


鏡の中の自分に、明日香は静かに語りかけた。声に出すことで、揺らがぬ誓いにするために。


「歴史は、変えない。変えられない。この城は落ちる。殿さまも、城の人たちも、大きな流れの中で、失われていく。それを、わたしの力では、止められない」


言葉にすると、胸が痛んだ。けれど、目は逸らさなかった。


「でも――救う相手は、わたしが選ぶ。歴史に名も残らない、書物の一行にもならない人たちを。その人たちの結末になら、まだ、わたしの手が届く。全部は無理でも、一人ずつ、選んで、救う」


それは、この城へ来て初めて、明日香が自分の意志で立てた、旗だった。「変えられない」という絶望に呑まれるのでも、無謀に歴史へ抗って災いを招くのでもない。その二つの間に、ようやく見つけた、細い一本の道。


鏡には、二人分の命が映っている気がした。ここで消えた桔梗と、遠い時代から流れ着いた明日香と。二人ぶんの生を、この一つの体で、生きていく。ならば、なおのこと、無駄にはできなかった。この誓いは、自分一人のものではない。


鏡の中の娘が、かすかに、頷いたように見えた。


翌日から、明日香の目は、変わった。


水を汲みながら、膳を運びながら、城の中の人々を、看護師の目で見るようになった。それは、病棟でしていた仕事に、どこか似ていた。限られた手で、誰に何ができるかを、冷静に見極める目。ただし今は、病の重さではなく、「歴史に残るか、残らぬか」で、線を引かねばならなかった。


本丸で采配を振るう城主、氏久。彼は、救えない。城主の生き死には、この城の落城とひとつづきの、記録に刻まれた運命だ。城を捨てて逃げれば、それはもう氏久ではなくなる。手を伸ばせば、災いを早めるだけ。最も救いたい人が、最も救えない。その事実が、鈍い刃のように、胸を抉った。


重臣たちも、名のある武士たちも、同じだ。彼らは戦って死ぬことが、すでに決まっている。


台所の下人や、城下の百姓たちは、どうだろう。彼らの多くは、城が落ちる前に逃げ散るか、あるいは新しい主のもとで、また田を耕すのかもしれない。名もなき者は、名もなきがゆえに、大きな流れの網の目から、こぼれ落ちることができる。皮肉なことに、身分の低さそのものが、生き延びる隙間になるのだ。


だが――逃げ場のない奥の女たち、幼い子らは、そうはいかない。城とともに囲われ、城とともに運命を負わされる。側室の志乃。姫の千代。あの母子の結末を、歴史は記していない。記録の外にいる。ならば、救える余地がある。冷たい言い方をすれば、「救う価値」ではなく「救う余地」で、明日香は人を選り分けていた。その計算の冷たさに、時折、自分で自分が嫌になる。それでも、選ばなければ、誰一人、救えない。


病棟でも、そうだった。何もかもに手が回らないとき、優先順位をつける。その判断が、時に誰かの死に直結すると知りながら、それでも決めねばならなかった。助かる見込みのある者から、手をつける。冷徹に聞こえるその原則だけが、限られた手で最も多くを救う道だと、経験が教えていた。今、明日香は、その同じ原則を、この戦国の城で、また手にしようとしていた。


数日のあいだ、明日香はそうして、静かに算段を練った。


同時に、一人では何もできないことも、改めて思い知った。奥の女が、側室と姫を勝手に城の外へ連れ出すなど、できるはずがない。誰か、力を貸してくれる者がいる。城の内と外を、身分の壁を越えて動ける、誰かが。


その顔は、一人しか浮かばなかった。


その日の夕暮れ、井戸端で薪を割る佐吉に、明日香はさりげなく歩み寄った。


「佐吉さん。一つ、訊いてもいい?」


「おう、なんだい。また戦の夢の話か?」


軽口を返しながらも、佐吉の手は止まった。すぎを看取った夜以来、この男の桔梗を見る目は、少し変わっていた。訝しみながらも、頭から馬鹿にはしなくなっている。


「もし――もしも、この城が本当に危うくなったら。城下に、人を匿ってくれるような伝手は、あるのかしら。お寺とか、知り合いの家とか」


佐吉の眉が、片方だけ上がった。薪を割る手を止めて、まじまじと桔梗を見る。


「……あんた、本気で言ってるのか。そういうことを」


佐吉の顔から、いつもの軽薄な笑みが、すっと消えた。城が危うくなったら、などという言葉を、下人が軽々しく口にできるものではない。聞きようによっては、殿さまを見限る不忠の相談にも取れる。首が飛ぶ話だ。それを、この娘は、あまりに真っ直ぐな目で言う。


「本気よ」


明日香は、目を逸らさなかった。佐吉は、しばらく黙って、桔梗の顔を見ていた。井戸の水面が、夕日を受けて、赤く揺れている。やがて、彼は割りかけの薪を置いて、低い声で言った。


「……その話、続きは、人のいねえとこで聞かせてくれ」


それだけ言うと、佐吉は素早くあたりを見回した。誰も聞いていないことを確かめる、その用心深い仕草こそが、彼が話を本気で受け取った、何よりの証だった。


風向きが、少しだけ、変わった。


救うと、決めた。旗も立てた。手を貸してくれそうな者の、糸口も掴んだ。だが、肝心なことが、まだ分からない。この城は、いつ落ちるのか。刻限を知らねば、逃がす算段も立てられない。そして、最初に救うと決めた顔を、もう一度、この目に焼きつけておかねばならなかった。

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