第7話 全部は救えない。それでも、一人なら救えるかもしれない
すぎのいなくなった板間は、がらんとして寒かった。
翌朝、明日香は一人、その片づけをしていた。薄い筵を丸め、汗を吸った古着を洗い場へ運ぶ。昨夜まで、たしかにここに、一人の人間の息があった。今はもう、その気配だけが、湿った藁の匂いに混じって、うっすらと残っているだけだ。
丸めた筵を抱えたまま、明日香は、しばらく動けなかった。
現代の病棟なら、と考える。すぎの症状は、たぶん重い肺の病だった。抗生剤があれば。点滴があれば。せめて痛み止めの一本でもあれば。助かったかもしれない命だった。それが、この時代では、指の隙間からこぼれる水のように、どうしようもなく失われていく。
その事実は、やはり、重かった。医療という後ろ盾を失った自分の無力さが、改めて、胸にのしかかってくる。
けれど、と、明日香は、昨夜の手のひらの温もりを思い返した。
すぎは、穏やかに逝った。痛みを訴えて悶えるのでも、一人きりで冷たくなるのでもなく、手を握られ、名を覚えられ、笑みさえ浮かべて。治せなかった。それは事実だ。だが、その最期を、たしかに自分は、変えた。和らげた。
無力感と、手応え。その二つが、胸の中で綱を引き合っている。ほんのわずかに、手応えのほうが、勝っていた。何もできないと打ちのめされていた数日前の自分より、今の自分は、少しだけ、前を向いている。
思えば、現代の緩和ケアの現場も、同じだった。運ばれてくる患者の多くは、もう治らない人たちだった。医師にも、これ以上できることはない、と告げられた人たち。それでも明日香は、無力ではなかった。痛みを取り、話を聞き、最期の時間を、その人らしく過ごしてもらう。治すこととは別の仕事が、そこにはあった。道具を失ったこの時代でも、その仕事の芯だけは、自分の中に、まだ残っている。
丸めた筵を、板間の隅に立てかけた。昨夜までここに寝ていた老女は、もういない。それでも不思議と、この城へ来た日に感じたような、底の抜けた絶望は、湧いてこなかった。すぎの穏やかな最期が、明日香の胸の内に、小さいけれど消えない灯を、一つ、残していったからだ。その灯りを頼りにすれば、もう一歩、前へ進めそうな気がした。
洗い場で筵をすすいでいると、奥の庭のほうから、幼い笑い声が聞こえた。
顔を上げる。側室の志乃が、縁側に座っていた。その膝の前で、四つばかりの女の子が、小さな手で毬をついている。城主の姫、千代だった。
「ととさま、いつ、かえる?」
舌足らずな声で、千代が問う。城主は近ごろ、軍議に明け暮れて、奥へ渡ってくることも稀なのだろう。志乃は、その髪をそっと撫でるばかりで、何も答えなかった。ただ、視線を庭の梅の梢へ、遠く向けている。答えを持たない母の横顔は、冷たいのではなく、途方に暮れているように、明日香には見えた。
千代は、返事がないのにも慣れているのか、すぐにまた毬に夢中になった。ぽん、ぽん、と拙い手つきで毬をつき、転がっていくのを、短い足で追いかける。頬は健やかに赤く、笑うと小さな歯がのぞく。この城のどこにも、滅びの影など知らない、生まれたての命そのものだった。
胸が、締めつけられた。
この母子は、何も知らない。この城が、遠からず戦火に呑まれることを。父であり夫である城主が、逃げずに死のうとしていることを。無邪気に毬を追うこの子の未来が、もう、ほとんど閉ざされかけていることを。知っているのは、この城で、明日香ただ一人だった。
歴史は、この城を滅ぼす。それは変えられない。城主も、城兵も、記録に刻まれた大きな流れの中で、失われていく。全員を救う力など、自分にはない。武力もない。権力もない。この城が落ちるその日を、指一本ぶんも、遅らせることはできない。
それは、もう、痛いほど思い知った。真実を叫べば妄言とされ、下手に動けば災いを早める。大局に逆らう手は、ことごとく弾き返される。
だが、と、明日香の中で、昨夜からくすぶっていた問いが、形を取りはじめた。
「全部」は、救えない。では、「一人」なら、どうだろう。
すぎ一人を、看取ることはできた。歴史の大きな流れは、すぎのような無名の一人が、どこでどう死のうと、気にも留めない。教科書に残るのは、勝った側の武将の名か、名だたる城の名だけだ。この鴉ノ端のような小さな支城で、飯を炊いた女や、毬をついた幼子が、落城の日にどうなったかなど、どの書物も記しはしない。
だが、それは裏を返せば――記録に残らないその人たちの結末には、まだ、誰の手も入っていない、白紙の余白がある、ということだった。
毬を追う千代の、小さな背中を見つめた。
この子が落城の日にどうなるかを、歴史は、記していない。記していないということは、決まっていない、ということだ。ここで死ぬとも、生き延びるとも、まだ書かれていない。その空白になら――大局には指一本届かない自分の、この無力な手でも、何かを書き込めるのではないか。
変える、のではない。城は落ちる。それは受け入れる。そのうえで、記録に残らぬ者を、選んで、救う。生き延びさせ、あるいは尊厳をもって看取る。それなら――この手にも、できるかもしれない。
心の臓が、静かに、しかし速く打ちはじめた。それは恐れではなく、久しく忘れていた種類の、前を向く鼓動だった。
すすぎ終えた筵を、明日香は固く絞った。冷たい水が、あかぎれの指に沁みる。その痛みが、かえって、決まりかけた覚悟を、たしかなものにした。
「変える」を、捨てよう。
代わりに、「救う相手を選ぶ」。
それは、甘い決意ではなかった。一人を選ぶということは、裏を返せば、選ばなかった大勢を、見捨てるということだ。すべての手を取ることは、できない。誰かの手を握るとき、別の誰かの手は、放すしかない。その残酷さも、引き受けねばならなかった。緩和ケアの現場で、限られた時間と人手を、どの患者にどう割くのか。いつも突きつけられてきた、あの重い選択と、それは同じだった。
問いは、答えへと変わりつつあった。あとは、決めるだけだ。この城で、自分がまず、誰の手を取るのかを。
庭に目をやると、千代がまだ毬を追い、その傍らで志乃が、行き場のない眼差しを、遠い空へ投げていた。あの母子なら、と、心のどこかで、もう答えは芽生えている。記録に残らぬ側室と、幼い姫。あの二人になら、きっと、別の結末を用意できる。
だが、それを本当に成し遂げるには、いつこの城が落ちるのか、その刻限を知らねばならない。そして、無力な自分ひとりの手だけでは、到底どうにもならないことも、明日香には、よく分かっていた。




