第6話 戦国で初めて、わたしは誰かの最期に間に合った
その夜、すぎの息が変わった。
明日香は、板間の枕元にいた。日が落ちてからずっと、傍を離れずにいた。下働きの身で持ち場を離れれば、また於松に叱られる。それでも、この夜だけは動けなかった。灯した油皿の炎が、隙間風に頼りなく揺れて、すぎの皺深い横顔に、濃い影を落としている。
その呼吸が、ふいに浅く、間遠になった。吸って、長く止まって、途切れ途切れに、また吸う。喉の奥で、痰の絡む低い音が鳴る。ひゅう、と細く息が漏れるたび、痩せた胸が、小さく上下した。
この息を、明日香は知っていた。何度も、病室で聞いた息だ。呼吸の間隔が伸び、顎で息を継ぐようになる。それは、旅立ちが近いしるしだった。もう、長くはない。
病棟であれば、ここで家族を呼び、医師に告げ、点滴を調える。けれど今、明日香の手のうちにあるのは、この二つの手のひらだけだった。道具も、呼べる誰かも、いない。それでも、できることは、まだ残っている。そう、自分に言い聞かせた。
慌てなかった。慌てないことが、この人のためになると、経験が教えていた。取り乱せば、その動揺は必ず、逝く者に伝わる。ただ、乾いて熱い手を、両手でそっと包み直す。骨と皮ばかりの、驚くほど軽い手だった。
「すぎさん。大丈夫。ここに、いますよ」
耳もとで、静かに囁く。聴覚は、最期まで残る。現代の病棟で、幾度も教わり、幾度も実践したことだ。だから、恐がらせる言葉は、決して口にしない。痛みで寄っていたすぎの眉から、こわばりが、少しだけ、ほどけた。
丸めた古着を背に差し入れ、上体をほんの少し起こしてやる。仰向けのままだと、絡んだ痰で息が苦しい。角度を変えるだけで、喉のごろごろという音が、いくらか和らいだ。竹筒の白湯を指先につけ、ひび割れた唇を湿らせる。できることは、ちいさなことばかりだった。それでも、すぎの荒い息が、一つ、また一つと、静かになっていく。
濁っていたすぎの目が、うっすらと開いて、明日香を捉えた。焦点は、もう遠い。
「……桔梗、か」
「はい。ここに、おります」
「ええ、娘じゃ。……こんな、皺くちゃの婆の手を、しまいまで、握ってくれてなあ」
言葉が、途切れがちに、それでも続いた。十五でこの城に上がった日のこと。早くに亡くした亭主のこと。生まれてすぐ冷たくなった、我が子のこと。うわ言めいていても、その一つ一つが、明日香には、六十年を生き抜いた一人の女の、確かな人生の欠片に聞こえた。誰にも語らず、胸にしまい込んできた、その半生を。
やがて、すぎの声が、ひときわ細くなった。
「もう、ええ。手を、握って、くれるだけで、ええ」
それが、すぎの最期の言葉だった。
握った手から、ゆっくりと、力が抜けていく。細かった息が、さらに細く、糸のようになって、やがて、止まった。喉の音も、消えた。板間には、油皿の芯が、じりじりと燃える音だけが残った。
明日香は、しばらく、その手を握っていた。まだ、温かい。指の一本一本に、この人が生きて働いた年月が、刻まれていた。
涙が、頬を伝った。けれど、それは現代で流したものとは、どこか違っていた。田村さんの冷たい手を握って「また間に合わなかった」と一人泣いた、あの夜の涙とは。
今度は、間に合った。
痛みを和らげ、恐怖を鎮め、最期の言葉を受け止め、この人が「一人ではない」と感じたまま、逝かせてやれた。医療も、薬も、清潔な布さえ満足にない時代で。ただ、手を握り、傍にいることだけで。あの夜、握れずに終わった手の重みが、今、少しだけ、報われた気がした。
すぎの体を、清めることにした。
桶に水を汲み、手ぬぐいを浸す。皺だらけの顔を、閉じた瞼を、こけた頬を、丁寧に拭っていく。次に、六十年働き通した手を。節くれだった指、たこの潰れた手のひら、ひび割れた爪。その一つ一つを拭いながら、明日香は、この手が炊いた無数の飯を、汲んだ無数の水を、思った。乱れた白髪を、櫛で整えてやる。あの、歯の欠けた木彫りの櫛だった。元の桔梗が遺した、たった一つの持ち物。主を失った櫛が、また一人、名もなき女の白髪を、静かに梳いていく。はだけた襟を、きちんと直した。
誰も、手伝う者はいなかった。台所の女たちは、明日を生きるのに忙しい。それでいい、と思った。この老女の一生を、心の底から悼む者が、この城に、たった一人でもいれば。それで、足りる。
「すぎさん。あなたのこと、忘れません」
冷たくなっていく額に、そっと手を当てて、明日香は誓った。名も残らず、どんな書物の一行にも刻まれない、一人の女の一生を。せめて、自分だけは覚えていよう、と。
板間の外に、人の気配があった。
於松だった。いつからそこにいたのか、腕を組み、じっと部屋の中を見ている。明日香が振り返っても、老女は何も言わなかった。ただ、桔梗の濡れた手ぬぐいと、整えられたすぎの亡骸を、順に見た。いつも吊り上がっているその目が、今は、ほんの少しだけ、和んでいた。やがて於松は、すぎに向かって黙って合掌すると、踵を返し、闇の中へ去っていった。咎める言葉は、一つもなかった。
一人になった板間で、明日香は、亡骸の傍らに座り続けた。
分かったことが、あった。
歴史は、変えられない。すぎの死も、防げなかった。もっと早く病に気づいても、この時代には、癒す術がなかった。この城が滅ぶことも、きっと、同じだ。大きな流れの前で、自分は、どこまでも無力だった。
けれど――「どう死ぬか」には、寄り添えた。
誰にも顧みられず、獣のように死ぬはずだった老女を、手を握られ、名を覚えられ、安らかに逝かせることは、できた。それは、歴史を一行も書き換えてはいない。だが、すぎ一人にとっては、天と地ほどの違いだったはずだ。
現代で看取れなかった人たちの顔が、また浮かんだ。最期の言葉に間に合わなかった人。もっと早く、痛みを取ってやれた人。その後悔は、消えない。きっと一生、消えないのだろう。けれど、その後悔があったからこそ、明日香は今夜、この一つの手を、最後まで放さずにいられた。あのとき握れなかった手が、今夜、別の誰かの手を、握らせてくれた。過去の痛みは、無駄ではなかった。この時代へ放り込まれた自分に、たった一つ残された確かなものが、この手なのだと、静かに思い定めた。
看取りは、負けではない。
現代でずっと信じ、この時代へ来て見失いかけていた言葉が、今、確かな手応えとなって、胸に戻ってきた。涙でにじむ視界の先に、これから自分が進むべき道の、おぼろげな輪郭が、見えはじめている。
変えられないのなら。せめて、わたしは、何をすべきなのか。
その問いの答えは、もう、半ば、見えかけていた。




