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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第5話 薬のない時代で、痛みを和らげる方法を、わたしはひとつだけ知っていた

すぎは、台所の裏の、納屋同然の板間に寝かされていた。


戦支度に追われる城で、死にかけた老下女に構う者はいなかった。運び込まれたのも、邪魔にならぬよう遠ざけられただけのこと。薄い筵の上で、すぎは高い熱に浮かされ、時おり、絞り出すように呻いていた。


「もう、歳じゃ。仕方あるまい」


そう言い置いて、女たちは去っていった。悪人だからではない。この乱世では、老いた者の死は、朝の霜が解けるのと同じくらい、ありふれたことなのだ。誰かが泣くほどのことでもない。


裏庭では、下人たちが柵の丸太を削る音が、絶え間なく響いていた。研ぎ師が刃を研ぎ、女たちは干し飯を俵に詰めている。城が、来る戦へ、総出で身構えている。その慌ただしさの隅で、すぎ一人が、時の流れから取り残されたように、細く呻いていた。誰かが通りかかっても、ちらと目をやるだけで、足は止まらない。


明日香は、その枕元に膝をついた。


板間には、饐えた汗と、古い藁の匂いがこもっていた。すぎの手を取る。乾いて、皺だらけで、驚くほど熱い。脈は速く、頼りなかった。触れた指先が、四百年前の時代のただ中で、ひとりでに動きだす。看護師だった頃、幾百の手を取ってきた、あの手つきで。


「痛いのね。どこが、いちばんつらい?」


うわ言の合間に、すぎの目が、うっすらと開いた。濁った瞳が、桔梗を捉える。


「なんじゃ、おまえ。かまうな。もう、ええんじゃ」


「よくないですよ。まだ、あったかいもの」


薬はない。点滴も、鎮痛剤も、清潔な布一枚さえ満足にない。この時代で、明日香の知識のほとんどは、道具がなければ使えない絵に描いた餅だった。


それでも――できることは、あった。


まず、桶に水を汲んできて、手ぬぐいを浸して固く絞った。熱で火照った額と、首すじと、脇の下を、そっと拭っていく。体を冷やすだけで、熱の苦しさはいくらか和らぐ。すぎの荒い息が、ほんの少し、静かになった。


次に、丸めた筵と、たたんだ古着を背に差し入れて、上体をわずかに起こしてやった。仰向けに寝かせきりだと、痰がからんで息が苦しい。少し起こすだけで、胸が楽になる。それも、幾度も病床で学んだことだった。


すぎの唇の端が切れて、血が滲んでいた。指を湿らせ、そっと拭ってやる。口の中が乾くだけで、人はひどく苦しむ。病院なら綿棒と小さなスポンジでする口の手当てを、明日香は自分の指と、清めた布切れで代わりにした。


熱で乾いた手ぬぐいを、幾度も水に浸しては、絞り直す。冷たさが逃げるたびに、また冷やす。単純な繰り返しだ。けれど、その一つ一つに応えるように、すぎの息が和らいでいくのが、握った手のひらから伝わってきた。痛みは、顔に出る。眉の寄せ方、息の詰め方。その表情を読みながら、明日香は、いちばん楽な角度を、少しずつ探っていった。


「白湯を、少し含んでみて。無理に飲まなくていいの。唇を湿らせるだけで」


竹筒の白湯を、匙で唇の端に運ぶ。乾いてひび割れた唇が、ゆっくりと湿っていく。すぎの喉が、こくり、と小さく鳴った。


すごい治療をしたわけではない。奇跡でもない。ただ、熱を拭い、息の楽な姿勢を探し、唇を湿らせ、そして手を握る。それだけのことだ。だが、その「それだけ」を、この城で誰一人、すぎにしてやらなかった。


呻きが、収まっていた。


すぎの、皺に埋もれた目が、じっと桔梗を見ている。何かを確かめるように。それから、しわがれた声が、震えながらこぼれた。


「……あったかいのう。手が」


胸の奥が、熱くなった。明日香は、握った手に、そっと力を込めた。


「ええ。ここに、いますから」


歴史は、変えられない。この城が滅ぶことも、すぎの命が長くないことも、指一本ぶんも動かせない。けれど、握った手の温もりを、この人に届けることは、できる。今、たしかに、できている。


昨夜、真っ暗な底で見えた針の先ほどの光が、明日香の手のひらの中で、小さく灯った。


これだ、と思った。現代で、治せない患者の傍らで、自分がしてきたことは、まさにこれだった。治すのではない。その人の最期の時間を、少しでも安らかにする。緩和ケアと呼ばれた、その手のひと仕事は、道具を失ったこの時代でも、消えてなくなってはいなかった。


叫んでも届かず、動いても裏目に出た。この城へ来てから、明日香のすることは、ことごとく空回りだった。だが今、この枕元でだけは、自分の手が、迷いなく動いている。何をすべきか、分かっている。久しく忘れていた、その手応えだった。


しばらくして、すぎの熱が少し引くと、うわ言に、途切れ途切れの昔語りが混じりはじめた。


十五でこの城に上がったこと。連れ添うた亭主を、流行り病で早くに亡くしたこと。授かった子は、生まれてすぐに冷たくなったこと。それきり、誰の妻でも母でもないまま、六十年、この城の水を汲み、飯を炊いて生きてきたこと。


歴史の書には、こういう人のことは、一行も残らない。合戦の年号も、城主の名も刻まれる。けれど、その城の飯を六十年炊き続けた女の名を、誰が書き残すだろう。すぎのような人が、名もないまま、無数に生まれ、無数に死んでいった。その一人が、今、明日香の手の中で、息をしている。


「わしの一生は、なあんも、残らん。子もない、名も残らん。ここで死んでも、誰も、覚えとりゃせん」


言葉に、恨みはなかった。ただ、長く生きた者の、静かな諦めがあった。


明日香は、その手を握ったまま、首を振った。


「わたしが、覚えています。すぎさんが十五でここへ来たことも、ご亭主を亡くしたことも、六十年、この城を支えてきたことも。ちゃんと、覚えています」


すぎの目が、見開かれた。濁った瞳の縁に、涙が盛り上がる。それは、痛みのために流す涙では、なかった。


死は、防げない。この人は、遠からず逝く。それは、変えられない大きな流れの一部だ。


けれど、変えられないその死を、どう見送るかは、まだ決まっていない。誰にも顧みられず、獣のように死んでいくのか。それとも、手を握られ、生きた証を一人に覚えていてもらって、逝くのか。


そこにだけは、この無力な手の、届く余地がある。


明日香は、この時代で初めて、一人の人間を看取ろうと、静かに、思い定めた。


板間の入口で、いつからか、於松が立っていた。腕を組み、何も言わず、桔梗の手つきをじっと見ている。やがて、老女は小さく息をつくと、踵を返して去っていった。何を思ったのか、その背中からは読み取れなかった。


すぎの寝息が、深くなる。


その手は、まだ温かい。だが、この温もりが失われる日が、遠くないことを、明日香は知っていた。変えられない一つの死を、これから、この手で見送るのだ。

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