第4話 歴史を変えようとするたび、わたしは誰かを、余計に不幸にする
三月に入っても、朝はまだ、身を切る寒さだった。
その日、明日香は覚悟を決めていた。言葉が誰にも届かないなら、目の前に危機を突きつけるしかない。人は、見えない脅威には備えないが、見えた脅威からは逃げる。病院でもそうだった。数字を並べるより、青ざめた患者を一目見せるほうが、医師は速く動いた。
だから、嘘をついた。
「敵じゃ! 東の物見に、敵の旗が!」
洗い場から表へ駆け出し、明日香は声を限りに叫んだ。この城の弱いところは、東の斜面だった。木立が薄く、寄せ手が取りつきやすい。そこに敵が来たと騒げば、皆が備えに動く。防備の甘さに、誰かが気づく。そう、算段したのだ。
城が、ざわめいた。
半鐘が鳴り、下人が走り、具足を掴む足音が板を踏み鳴らす。物見櫓へ、幾人もの兵が駆け上がっていく。井戸端の女たちが子を抱えて逃げ惑い、厩の馬が嘶いた。明日香の作った嘘が、みるみる城じゅうへ広がっていく。
止められなかった。一度放たれた叫びは、燃え広がる火だった。人から人へ移り、勝手に膨れ上がっていく。誰かが「二十万の大軍か」と喚き、誰かが数珠を握って念仏を唱え、母親が我が子の名を金切り声で呼んだ。明日香が見せたかったのは、備えの要る現実だった。だが人々の顔に浮かんだのは、備えではなく、剥き出しの恐慌だった。
けれど、東の斜面には、誰もいなかった。
梅の残る、静かな山肌があるだけだった。
半刻もせぬうちに、それは「下女の見間違い」として片づけられた。いや、見間違いですらない。騒ぎの出どころが桔梗だと知れると、女たちの目の色が変わった。
「あの娘が、ありもせぬ敵を叫んだのじゃ」
「馬が暴れて、荷が井戸に落ちた。米が、水浸しじゃ」
「兵が無駄に駆け回って、殿の御手を煩わせた」
明日香は、主殿前の白洲に引き据えられた。膝の下の砂利が、冷たく食い込む。
「たわけが!」
於松の声が、頭上から降ってきた。今度こそ、静かではなかった。
「戦支度の最中に、偽りの触れを出すとは。人心を乱し、兵を疲れさせ、蔵の米まで濡らしおって。おまえのしたことが、どれほどこの城の害になったか、分かっておるのか」
分かっていた。痛いほど。
救いたくて動いた。備えさせたくて叫んだ。なのに結果は、この城を弱らせただけだった。乏しい米を無駄にし、人を疲れさせ、次に本当の危機が来ても、もう誰も半鐘を信じない。そういう下地を、自分の手で作った。狼が来たと嘘をつき続けた童の、あの寓話のとおりに。
何より、こたえたのは米だった。井戸に落ちた俵は、水を吸って使い物にならなくなった。籠城になれば、その一粒一粒が、人の命を繋ぐはずの兵糧だ。この城がやがて長い籠城に入ることを、誰より知っているのは、自分ではないか。救うつもりで、真っ先に、その命綱を減らした。物見に駆け上がった若い足軽が一人、梯子を踏み外して腕を折ったとも聞いた。ありもせぬ敵の、ために。
歴史を変えようと手を伸ばすたびに、その手は、救いたいものを、余計に傷つける。
白洲の隅で、じっとこちらを見ている男がいた。
年のころ五十がらみ。上等な羽織を着て、家老格と見える。騒ぎの一部始終を、腕を組んで眺めていた。他の家臣が桔梗を叱る中で、その男だけは、叱りもせず、値踏みするような目でこちらを観察している。
やがて、男はゆっくりと近づいてきた。
「おぬし、桔梗といったか」
声は、慇懃だった。だからこそ、底が知れなかった。
「妙な娘よ。ただの見間違いで、あそこまで騒ぐか。……まるで、あの斜面が攻められると、はなから知っておったような口ぶりであったが」
心の臓が、ひやりと縮んだ。この男は、他の誰とも違う。桔梗の叫びを、ただの粗相とは見ていない。その裏に「何か」を嗅ぎ取ろうとしている。
奇妙なことに、この男からは、城の危機を憂える気配が、まるで感じられなかった。皆が浮き足立つ中で、一人だけ、妙に醒めていた。この城の行く末など、とうに見限っているかのように。
「めっそうもございませぬ。ただ、鳥影を、旗と、見誤り」
「ふむ」
男は、それ以上追及しなかった。ただ、うっすらと笑って背を向けた。去りぎわ、独り言めかして呟いたのが、耳に残った。
「これも、家のためよ。……余計なことを嗅ぎ回る鼠は、はよう片づけるに限る」
弥兵衛、という重臣だと、あとで佐吉から聞いた。得体の知れぬ寒気だけが、後に残った。
その日、明日香は納戸に籠められ、夕餉も与えられなかった。
板壁の隙間から、細く月が見えた。膝を抱えて、明日香はうずくまっていた。あかぎれの手が、寒さでかじかんでいく。
歴史は、わたしごときには、変えられない。
もう、認めるほかなかった。大きな流れに逆らおうとすれば、必ず弾き返される。それどころか、下手に手を出したぶんだけ、事態は悪くなる。この城が滅ぶという結末は、下女ひとりの覚悟や小細工では、指一本ぶんも動かせない。
現代で、田村さんの手を握りながら呟いた言葉が、闇の中で甦った。また、間に合わなかった。あのときも、今も、自分はいちばん大事なところで、何もできない。
看取ってきた患者の顔が、いくつも浮かんだ。最期の言葉に間に合えなかった人。痛みを、もっと早く和らげてやれたはずの人。その後悔を抱えて、それでも「看取りは負けではない」と自分に言い聞かせて、生きてきた。その言葉さえ、この理不尽な時代の前では、無力に思えた。
涙が、頬を伝った。声を殺して、明日香は泣いた。この体の持ち主の、あかぎれの手の甲で、それを拭った。
――では、本当に、何ひとつ、できないのだろうか。
泣きながら、心の底で、小さな声がした。城は救えない。それは分かった。だが、この城には、名も残らぬまま消えていく人が、大勢いる。その一人ひとりの最期にすら、自分は何もできないと、そう決まったわけではない、はずだ。
城は、大きな流れだ。変えられない。けれど、名も残らぬ一人の手を、最期に握ることは。その痛みを、少しでも和らげてやることは。それだけなら、この無力な手にも、できるかもしれない。
まだ、答えとは呼べなかった。ただ、真っ暗な底に、針の先ほどの光が、差した気がした。
その問いの答えが見えぬまま、夜が更けた。
翌朝、納戸から出された明日香が、水を汲みに向かったときだった。
台所の土間で、老いた下女が一人、崩れるように倒れた。すぎ、という白髪の老女だった。誰も、手を貸そうとしない。忙しい朝だ。年寄りの目まいなど、珍しくもない。
饐えた汗と、竈の煙の匂いが立ちこめる土間に、すぎは横たわっていた。唇は紫がかり、額に脂汗が浮いている。浅く速い息。ただの立ちくらみではない。
けれど、明日香の足は、考えるより先に動いていた。
桶を放り出し、土間に膝をつく。冷たい手を取り、脈をさぐる。その指は、四百年の時を越えて、看護師だった頃の動きを、はっきりと覚えていた。




