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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第3話 まことを告げるほど、わたしは気の触れた娘にされていく

二月も末になると、朝の霜が日中まで解けずに残った。


機会を、明日香は何日も待っていた。於松が一人になる折を。奥の女たちの目がないところで、あの人にだけ、話をしなければ。この城が危ういと信じてもらえるのは、奥でいちばん力を持つ、あの老女しかいない。


この数日、明日香は言葉を選びに選んだ。未来の年号も、まして教科書の話も、口にはしない。ただ「嫌な胸騒ぎがする」と、下女らしい言い方で、備えだけを勧める。それなら、聞いてもらえるかもしれない。何度も口の中で繰り返した台詞は、それでも、いざとなると喉に貼りついた。


城の内は、日ごとに慌ただしくなっていた。具足の手入れをする金属の音、蔵へ運び込まれる米俵、東へ駆けていく早馬。誰もが、来るべき何かに備えている。ただ、その「何か」の正体を、明日香だけが知っていた。


その日の昼下がり、於松は納戸で冬物の衣を検めていた。樟脳の、つんとした匂いが立ちこめている。ほかに人はいない。


明日香は敷居の前に膝をつき、両手をそろえた。指先が、震えている。


「於松さま。折り入って、申し上げたきことが」


「なんじゃ。手が塞がっておる、手短にせい」


畳んだ小袖から目を上げず、於松は言った。明日香は、喉の奥で一度、息を整えた。


「近いうちに――この城は、攻められます。大きな戦になります。今のうちに、女子供を逃がす手立てを、殿さまにお考えいただくよう、どうか」


於松の手が、止まった。


しばらく、樟脳の匂いだけが、二人のあいだにあった。老女はゆっくりと顔を上げ、桔梗を見た。皺に埋もれた目が、細く鋭くなる。


「……おまえ、それを、どこで聞いた」


「聞いたのでは、ございませぬ。ただ、分かるのです。北条の御味方は、いくさに負けます。この城も、無事ではすみませぬ」


言葉にした瞬間、自分でも、どれほど馬鹿げて響くかが分かった。根拠を問われても、四百年後の教科書だとは言えない。ただ「分かる」としか言えない女の言葉に、重みなどあるはずがなかった。


於松の頬が、こわばった。それから、その口の端が、冷たく吊り上がった。


「たわけたことを」


低い声だった。怒鳴られるより、その静かさが、明日香の背を凍らせた。


「下女が、いくさの行方を占うか。北条の御家が負けるじゃと? 御味方は今、小田原に総勢を集めておられる。関白ごときに、この関東が破られてなるものか。……おまえ、近ごろ様子がおかしいと思うておったが、ついに気でも触れたか」


「わたくしは、正気でございます。ただ、備えだけでも」


「黙りゃ」


於松は衣を置き、膝でにじり寄った。声を落としたぶん、凄みが増した。


「よいか。二度と、そのような世迷い言を口にするでない。奥の女が『城が落ちる』などと言い触らせば、人心が乱れる。殿さまの御耳に入れば、おまえの首だけではすまぬ。里の親兄弟まで、咎めを受けるのじゃぞ」


里の、という言葉に、明日香の胸が痛んだ。あの、書きかけの文の家族。桔梗の名を騙る自分の軽率が、会ったこともないその人たちを、危うくする。


知っているというだけでは、人は救えない。それどころか、口にすれば災いを呼ぶ。未来を告げる舌は、この世界では、毒にしかならないのだと、明日香は畳に額をつけたまま、思い知った。


頭を垂れるほか、なかった。畳に額がつくほど、深く。


正攻法では、届かない。真実であればあるほど、それは妄言になる。この時代で「未来を知る」ことは、力ではなかった。ただ、危うい娘の証にしかならない。


それでも、諦めきれなかった。


夕刻、井戸端で佐吉をつかまえた。相手を選べば、遠回しになら、種を蒔けるかもしれない。


「佐吉さん。もし、もしもよ。この城が攻められたら、台所のみんなは、どこへ逃げるの」


薪を割っていた佐吉が、手を止めて、けらけらと笑った。


「へっ、また無茶を言う。桔梗さん、あんた近ごろ、戦の夢でも見てんのか」


「そうじゃなくて。備えは、あったほうが」


「戦なんざ、殿さま方のやることさ。おれら下々は、来たら逃げる、それだけよ。いちいち怖がってちゃ、この乱世、生きていけねえって」


洗い場のほうから、中臈の女が口を挟んだ。「桔梗、おまえ怖がりすぎじゃ。去年も一昨年も、戦になると騒いで、何も起きなんだろうが」


笑い声が、井戸端に広がった。悪気は、ない。だからこそ、こたえた。


薪を割り終えた佐吉が、去りぎわに、ふと真顔になった。


「けどよ、桔梗さん。あんまり顔色悪くしてると、そのうち本当に病を呼ぶぜ。あんたの言うことは、いっつも訳が分からねえけどよ、まあ、体だけは、大事にしな」


不器用な気遣いが、かえって胸に沁みた。この人は、信じてはくれない。それでも、案じてはくれる。だが、案じられるだけでは、誰も救えなかった。


誰も、本気にしない。何を言っても、水面に石を投げるように、波紋ひとつ残さず沈んでいく。言葉というものが、こんなにも無力だとは。病院で、医師に一言告げれば人が動いた、あの当たり前が、ここにはどこにもなかった。


その帰り道だった。


奥から主殿へ渡る廊下の、板戸の隙間。中庭を挟んだ向こうに、家臣たちが列をなして主殿へ吸い込まれていくのが見えた。物々しい。具足を鳴らす者もいる。軍議、というのだろう。空気が、ぴりぴりと張り詰めていた。


その列の先に、一人の若い武士が立っていた。


家臣たちが、次々とその前に膝をつく。あれが、城主。氏久さま。明日香は、板戸の陰から息を殺して、初めてその姿を見た。


まだ、二十代半ばだろう。派手な鎧ではない。深い藍の直垂に、静かな佇まい。声を荒げるでもなく、家臣の言葉に、じっと耳を傾けている。整った横顔に、若さに似合わぬ翳りがあった。負けると分かっている戦の重みを、たった一人で背負う者の顔だった。


風に乗って、家臣たちの声が、途切れ途切れに届いた。「小田原へ、御加勢を」と誰かが張り上げ、氏久が短く何かを答える。その声までは聞き取れなかった。ただ、居並ぶ家臣が一様に頭を垂れたのが見えた。逃げる、という言葉は、あの評定の中に、たぶん、ひとつもないのだろう。城を枕に討ち死にを、と皆が思い定めている。


その人が、ふと中庭のほうへ目を向けた。


見つかる、ととっさに身を引いた。心の臓が、早鐘を打っている。見つかったわけではない。ただ、遠くにいるあの人が、あまりに近く、生々しく感じられて、動けなかった。


あの人も、このままでは死ぬ。


城とともに。歴史が、そう決めている。あんなに静かな目をした人が、この夏の終わりには、もう、いない。


そう思うと、じっとしてなどいられなかった。言葉が届かないなら、行動で示すしかない。誰かに、何か、目に見える形で、危機を突きつける。


たとえば、東の物見に異変があったと、大きな騒ぎを起こしてみせれば。たとえ作り話でも、危機を目の前に見せつければ、人は嫌でも備えるのではないか。そのための算段を、明日香は歩きながら、必死に組み立てはじめた。


それが、取り返しのつかない過ちになるとは、露ほども思わずに。

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