第2話 この城が滅ぶと叫んでも、下働きの娘の声は誰にも届かない
翌朝は、まだ暗いうちから始まった。
井戸の水は、指がちぎれそうに冷たかった。桶を二つ、天秤棒で担いで奥の台所まで運ぶ。たったそれだけのことが、明日香にはうまくできない。この娘の体は水汲みに慣れているはずなのに、肩に食い込む棒の重みで、足がふらついた。
板の間に、水をこぼした。ほんの少し。それを見咎める声は、速かった。
「たわけたことを」
奥を仕切る老女が、桔梗を見下ろしていた。於松、と皆がそう呼ぶ。ゆうべ盥の前で叱ったのも、この人だ。白髪をきつく束ね、背筋は若い娘よりまっすぐに伸びている。
「近ごろのおまえは、まるで魂が抜けたようじゃ。奥の作法も、水の一杯も、満足に運べぬのか」
「申し訳、ございませぬ」
頭を下げる。ほかに、できることがなかった。ここでは、明日香が何を知っていようと、何ひとつ意味を持たない。
於松は、すぐには立ち去らなかった。束ねた白髪の下から、細めた目で、じっと桔梗を見下ろしている。値踏みするような、底の見えぬ目だった。
「……おまえ、ほんに桔梗か」
つぶやきは低く、明日香の心の臓を、ひやりと掴んだ。作法の乱れを、この老女はただの粗相とは見ていない。答えず、ただ深く頭を垂れると、於松はやがて小さく鼻を鳴らして去っていった。
奥向きには、はっきりとした序列があった。城主。その正室。側室の志乃さま。奥を束ねる上臈の於松。中臈の女中たち。そして、その下に、桔梗がいる。さらに下は、台所の下女と下人だけだ。下から、二番目。
上の人には、桔梗の声は届かない。側室の御前に出れば、顔を上げることさえ許されなかった。廊下では壁際に寄り、目を伏せて過ぎるのが習いだと、体が勝手に覚えている。
その朝も、渡り廊下で側室の一行とすれ違った。志乃さま、と皆が声をひそめて呼ぶ、若い側室だ。打掛の裾が、桔梗のすぐ前を滑っていく。壁に寄って頭を垂れた明日香の視界に、白い横顔がよぎった。まだ二十歳にもならぬだろうに、その目は凍った池のように、何も映していなかった。誰の声も届かせまいとする、固く閉じた目だった。
(この身分で、いったい何ができるというんだろう)
雑巾で濡れた床を拭きながら、明日香は奥歯を噛んだ。病院では、患者の異変を真っ先に告げるのは、いつもいちばん近くにいる看護師だった。声を上げれば、医師が動いた。ここには、その回路がない。知っていることを、告げる相手さえいなかった。
昼の下がり、わずかに手が空いた。
割り当てられた納戸の隅に、この体の持ち主の荷があった。柳行李がひとつ。ゆうべ触れた木彫りの櫛も、そこから出したものだ。明日香は蓋を開け、中を検めた。他人の荷を探るうしろめたさが、指を鈍らせる。
粗末な着替えの下から、布に包まれた手鏡が出てきた。銅の鏡面は曇り、縁の漆はほとんど剥げている。安物だ。それでも、丁寧に布で包まれていた。この娘にとっては、宝物だったのだろう。
その手鏡と一緒に、折りたたんだ紙が挟まっていた。
開くと、たどたどしい仮名が並んでいた。墨は薄く、字はところどころ震えている。読み書きを、独りで覚えたのだろう。里の家族に宛てた文だった。
ととさま、かかさま。おげんきにおすごしか。おみつのせきは、なおりましたか。こちらは、つとめにはげんでおります。おあしがたまれば、かならず、おくります。
文は、途中で終わっていた。畳んだ跡が幾重にもついている。何度も書きかけては、しまい込んだのだ。渡す当てが、なかったのかもしれない。
明日香は、しばらく動けなかった。
桔梗は、貧しい在の出だった。おそらく、家の口減らしのために奉公に出された。それでも、里に残した幼い妹の咳を案じ、貯めた銭を送ろうとしていた。会いたい人がいて、守りたい家族がいた、ひとりの娘だった。
途中で切れた墨の跡を、明日香は指でなぞった。伝えたいことを、伝えられないまま終わる。その痛みなら、自分もよく知っている。看護師になったのも、もとはといえば、幼い日に祖母の最期へ間に合えなかった、あの後悔からだった。あのとき握れなかった手の冷たさを、今も覚えている。
「あなたのぶんも、生きなきゃ」
声に出すと、胸の奥が熱くなった。他人の人生だと思っていたものが、急に、重みを持って腕に返ってくる。この手で、書きかけの文を、そっと元の場所へ戻した。
夕暮れ、井戸端に出ると、台所の下人が薪を運んでいた。
「よう、桔梗さん。今日はまた、ずいぶん盛大に水をこぼしたんだってな」
にやにや笑って言う。佐吉、という若い下人だった。城下の生まれで、口が軽く、身分の割に物おじしない。
「地獄耳ですね」
「へっ、この城で起きたことは、たいてい台所を通るのさ。米も、噂も、な」
薪を積み直しながら、佐吉は声を落とした。「その米も、近ごろは蔵の減りが早いと、賄い方がぼやいてたよ。いくさ支度で、兵糧をため込んでるんだとさ。まあ、おれら下々にゃ、関わりのねえ話さ」
関わりがないはずが、ない。明日香はそう思ったが、口には出さなかった。
佐吉の目の端は、井戸の向こうへ向いていた。中臈の女たちが、桶を囲んで声をひそめている。
「近ごろ、街道を東へ行く早馬が、やけに多いそうな」
「戦が、近いのじゃろう。あちこちの城が、もう」
「うちの殿さまも、小田原へ兵を出すやら出さぬやら」
女たちの声は、そこで途切れた。誰かが、聞かれてはならぬと目配せをする。
明日香の背を、寒いものが這った。
北条方の支城は、各地で落ちていく。小田原の本城が囲まれるより先に、外郭の小さな城から、ひとつ、またひとつと。教科書には一行も残らない、名もない城が。
この城も、そうなる。遠からず、必ず。
もう、疑いようがなかった。
「桔梗さん? おい、顔が真っ白だぞ」
佐吉の声が、遠くに聞こえた。明日香は井戸の縁を握り、水面に映る桔梗の顔を見下ろした。
黙って、見ているだけなんて、できない。
看取ることしかできなかった夜を、もう繰り返したくなかった。まだ間に合うのなら。誰か、この城の上に立つ人に、届く言葉で伝えられたなら。この家は、滅ばずにすむのではないか。
殿さまに――いや、下女の身で殿さまに会える道理がない。ならば、誰か取り次いでくれる人を探すのだ。於松でもいい。この城が危ういと、信じてくれる誰かを。
そのときの明日香は、まだ、そう信じていた。歴史というものが、下女ひとりの覚悟くらいで、たやすく道を譲ってくれるものだと。




