第1話 線香のにおいで目を覚ましたら、滅びる城にいた
深夜二時の緩和ケア病棟は、点滴の落ちる音まで聞こえるほど静かだった。
明日香は、痩せた手を両手で包んでいた。まだ、温かい。けれど脈は、もう指の腹に返ってこない。枕元のモニターが平らな線を引いて、低く鳴りはじめる。
「大丈夫ですよ。ここにいますから」
答える人はいない。それでも明日香は、いつもそう声をかけてきた。息を引き取るその瞬間まで、人は耳が聞こえていると教わったから。
田村さん、七十八歳。膵臓の癌だった。「桜が見たい」と、口癖のように言っていた人だ。三月の頭には、と医師は言った。今はまだ、二月の寒い夜だ。
明日香はナースコールを押さず、しばらく手を握ったままでいた。当直医を呼べば、確認と処置で、この静けさは終わってしまう。もう痛みのない人に、あと数分だけ、付き添っていたかった。
「また、間に合わなかった」
呟いた声が、自分でも驚くほど掠れていた。日勤の残業に追われて、田村さんの意識があるうちに戻れなかった。話したかったことが、あったかもしれないのに。
看取りは、負けじゃない。治せなくても、その人の最期を、意味のあるものにできる。そう信じて、この仕事を選んだ。今も、信じている。
なのに、どうして手が冷たくなっていくのを止められないんだろう。両手のなかの温もりが、少しずつ、指の隙間から抜けていく。
まぶたが重い。消毒液のにおいが、ふいに遠ざかった。握っていたはずの手の感触が――
線香の、煙たいにおいだった。
頬に触れるのは、冷たい板の間。目を開けると、見たことのない天井があった。太い梁が黒く煤け、隅で蜘蛛の巣が揺れている。モニターの音も、消毒液のにおいも、どこにもない。
体を起こそうとして、明日香は自分の手を見た。
若い。指が細く、節が荒れて、爪の際にあかぎれが走っている。田村さんの手を包んでいた、自分の手ではなかった。もっと年若い、水仕事に荒れた娘の手だ。
「桔梗、いつまでぼんやりしておる」
しわがれた女の声が飛んできた。反射的に返事をしかけて、喉から出たのは、聞き慣れない声だった。高くて、細い。自分のものではない声。
薄暗い板間に、粗末な小袖の女が数人いた。皆、髪を後ろで束ね、忙しなく膳を運んでいる。板壁の隙間から差す光が白い。朝だ。
(ここは、どこ)
明日香は膝をついたまま、動けなかった。取り乱してはいけない。まず、状況を観察する。何が起きているのか、自分に何ができるのか。仕事で染みついた癖が、パニックの一歩手前で踏みとどまらせた。
すぐそばに、水を張った盥があった。覗き込む。
映っていたのは、十六、七の娘の顔だった。頬がこけ、目ばかりが大きい。青ざめた、見も知らぬ顔。それが、水面のなかで明日香とまったく同じにまばたきをした。
息が、止まった。
「桔梗。水が冷たかろう、早う運ばぬか」
さっきの女が、苛立たしげに言う。束ねた白髪に、厳しい目つきの、五十がらみ。「桔梗」というのが、この娘の名前らしい。つまりは、今の自分の。
「申し訳、ございませぬ」
口が、勝手に古い言葉を選んでいた。この体に染みついた作法が、明日香の意思より先に動く。女は鼻を鳴らして去っていった。
盥の水面が揺れて、また静まる。知らない娘の顔が、もう一度こちらを見返す。夢ではない。あかぎれの痛みも、線香のにおいも、床の冷たさも、何もかもが生々しすぎた。
田村さんを看取って、それから。記憶は、そこでぷつりと途切れている。
膳を運びながら、明日香は耳をそばだてた。混乱している場合ではない。生き延びるには、まずここがいつの、どこなのかを知らなければ。
女たちの声は、低く、切れぎれだった。
「小田原の御城は、まだ持ちこたえておるそうな」
「じゃが相手は二十万というではないか。関白さまの……」
「めったなことを言うでない。壁に耳あり、じゃ」
小田原。関白。二十万。
板膳の縁を握る指に、力が入った。冷たい汗が、じわりと背を伝う。
関白――秀吉。二十万の大軍。籠城する小田原の城。頭の底に沈んでいた教科書の一行が、ゆっくりと浮かび上がってくる。豊臣秀吉による、小田原征伐。北条氏が、滅んだいくさ。
たしか、西暦で千五百九十年。
もし今がその年なら。もしここが、北条方の城なら。
明日香は、廊下の先の板戸の隙間から見える空を見た。まだ雪の残る、二月の鉛色の空。田村さんが「桜が見たい」と言った、あの季節と同じ。
けれど、この空の下で待っているのは、桜ではなかった。
この城は、滅ぶ。
歴史が、そう決めている。いつ落ちるのかは知らない。どの城かも、正確には分からない。それでも、大きな流れだけは、はっきりと知っていた。北条は負ける。この夏か、秋か。ここにいる女たちも、あの厳しい老女も、膳の上で湯気を立てる朝餉も、何もかもが。
「桔梗?」
隣を歩いていた若い女中が、怪訝そうに顔を覗き込んだ。「顔色が、ようないぞ。どこぞ、悪いのか」
悪い。悪いに決まっている。
けれど、それを口にする術を、明日香は持たなかった。「この城は半年ののちに滅びます」と叫んだところで、誰が信じる。信じさせようと動けば、気の触れた下女として遠ざけられるだけだ。
明日香は、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。なんでも、ございませぬ」
膳の湯気が、白く立ちのぼる。粟の匂い。生きている人たちの、朝の匂いだ。
その一人ひとりが、滅びへ向かう時計の針の上に立っていることを、この城でただ一人、明日香だけが知っていた。
余命を告げられた患者の病室に、明日香は幾度も立ってきた。あとどれくらいか、家族には見える。本人にも、うすうす分かっている。けれど当の患者は、それでも今日の粥を食べ、明日の天気を気にかけ、庭の花のことを話す。知りながら、生きる。
今、この城が、まるごとその病室だった。
膳の湯気の向こうで、女たちが笑っている。誰かが漬物の塩加減に文句を言い、別の誰かが言い返して、小さな笑いが起きる。あと数か月で失われると決まった、なんでもない朝の景色。それを、止める手立ては、明日香にはない。
夜、割り当てられた納戸のような狭い部屋で、明日香はようやく一人になった。
薄い夜着の懐に、硬いものが触れた。取り出すと、古びた木彫りの櫛だった。歯が二本、欠けている。誰かの形見だろうか。それとも、この「桔梗」という娘が、肌身離さず持っていたものか。
この体の持ち主は、どこへ行ったのだろう。十七年、この時代を生きてきたはずの娘。親は、生まれた里は、好いた相手はいたのか。その何一つ、明日香は知らない。
知らないまま、自分は明日から、「桔梗」として生きていく。そうしなければ、この体ごと、明日にでも消えてしまう気がした。
櫛を握りしめる。あかぎれの指が、じくりと痛んだ。
大丈夫。まだ、できることがある。
いつも自分に言い聞かせてきた言葉を、明日香は四百年前の闇のなかで、もう一度、口の中で転がした。
この城が滅ぶ日まで、あと、どれほど残されているのだろう。




