第10話 この城は落ちる。だから、逃がしたい人がいる
四月に入り、山の緑が日ごとに濃くなった。
田植えの季節が近づいている。城下の百姓たちは、いつもの年と変わらず、代掻きの支度を始めていた。だが、その頭上に、滅びの影が刻一刻と迫っていることを、明日香は知っている。のどかな景色ほど、かえって胸を締めつけた。
昼下がり、人目の絶えた頃合いを見計らって、明日香は城の裏手の古い蔵へ向かった。かび臭い薄闇の中に、干し草と鉄気の匂いがこもっている。積み上げた俵の陰で、佐吉が、落ち着かない様子で待っていた。呼び出したのは、明日香のほうだった。ゆうべは一睡もせず、どう切り出すかを考え続けた。信じてもらえる保証など、どこにもない。それでも、佐吉のほかに、頼れる相手はいなかった。
「わざわざこんなとこに呼び出して。いってえ、なんの話だよ」
薪割りのときとは違う、硬い声だった。明日香は、蔵の戸を細く閉め、外に人の気配がないのを確かめてから、佐吉に向き直った。回りくどい言い方は、しないと決めていた。切り出す一言で、後戻りはできなくなる。それでも、言うしかなかった。
「この城は、落ちる。遠くない先に。豊臣の大軍に、囲まれて」
佐吉の顔が、こわばった。積みかけた俵に手をかけたまま、彼は固まっている。
「だから、逃がしたい人がいるの。落城の前に、この城の外へ。手を貸してほしい」
蔵の中に、沈黙が落ちた。梁の上で鼠が走る、かさこそという乾いた音だけがした。佐吉は、しばらく口を開かなかった。やがて、絞り出すように、掠れた声で言った。
「へっ。無茶を言う。あんた、自分が何を言ってるか、分かってんのか」
「分かってる」
「分かってねえよ。そんなの、殿さまを見限るってことだぞ。城が落ちるだのなんだの、そんな話が漏れただけで、おれもあんたも、首が飛ぶ。いや、首だけじゃ済まねえ。見せしめに、どんな殺され方をするか」
佐吉の声が、震えていた。恐れは、当然だった。下人が城の滅亡を口にし、奥の人間を勝手に逃がそうとする。露見すれば、拷問と死が待っている。それを承知で、明日香は、彼を巻き込もうとしていた。
「怖いのは、分かる。ごめんなさい。それでも、あなたにしか、頼めないの」
明日香は、頭を下げた。下女が、下人に、頭を下げる。奥の序列では、ありえない姿だった。
「あなたは、城の中も、城下も知っている。身分の壁を、いちばん自由に越えられる。城下の寺にも、百姓の家にも、顔がきく。あなたの力が、どうしても要るの」
佐吉は、頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。逃げ出したい、という顔だった。関わりたくない。聞かなかったことにしたい。その葛藤が、薄闇の中でも、はっきりと見て取れた。
だが、彼は、逃げなかった。
しゃがんだまま、上目遣いに桔梗を睨むようにして、佐吉は唸った。
「なんで、そこまでするんだよ。奥の側室さまと姫さまだろ。あんたみてえな下っ端の女中が、命がけで庇う義理なんざ、どこにもねえだろうが」
その問いに、明日香は、すぐには答えられなかった。
すぎを看取った夜のことを、思い出す。名も残らぬ者を、それでも一人、見送りたいと願った、あの気持ち。歴史の大きな流れが切り捨てていくものを、せめて自分の手の届く範囲だけでも、拾い上げたい。その願いを、どう言葉にすればいいのか、分からなかった。
「見捨てたく、ないの。……それだけ」
結局、出てきたのは、その一言だった。飾りも、理屈もない。
佐吉は、じっと桔梗の顔を見ていた。すぎの亡骸を、たった一人で夜通し清めていた、あの背中を、彼もどこかで見ていたのかもしれない。長い沈黙のあと、佐吉は、天を仰いで、大きく息を吐いた。
「……あー、くそ。分かった。分かったよ」
「佐吉さん」
「言っとくが、おれは臆病者だ。本当にやばくなったら、まっ先に逃げる。それでもいいなら、手を貸す。あんたの言うことは、いっつも訳が分からねえけど、外れたためしが、ねえからな」
胸の奥が、熱くなった。ありがとう、と言いかけて、明日香は、その言葉を飲み込んだ。礼を言うには、これから彼に背負わせるものが、あまりに重すぎた。
そこから二人は、俵に身を寄せ、声をひそめて算段を始めた。
「連れ出すのは、側室の志乃さまと、姫さまのお二人。落城の、どれくらい前がいい?」
「早すぎりゃ、いなくなったのがバレて大騒ぎになる。遅すぎりゃ、逃げる道がふさがる。落ちる、ぎりぎりの見極めが要るな」
「その日を、どうやって見極める?」
「そりゃ、あんたの勘だのみだろ」佐吉は、投げやりに口の端を曲げた。「それより、問題は連れ出す道だ。大手門は戦支度で、蟻の子一匹通さねえ。まともに出るのは、無理だ」
「抜け道は、ないの?」
佐吉は、少し声を落とした。
「……一つ、心当たりはある。昔、城下の年寄りに聞いた、水の手の抜け道だ。今はもう使われてねえが、たどれば、城下のはずれの寺の裏に出る。その寺の住職なら、おれの遠縁だ。事情次第じゃ、匿ってくれるかもしれねえ」
かすかな、けれど確かな道筋が、闇の中に一本、見えた気がした。
だが、道が見えたところで、当の二人を、その道まで連れていけなければ意味がない。志乃は、明日香の顔さえろくに知らぬ側室だ。ある日突然、下女に「逃げましょう」と囁かれて、素直に従うはずもない。まして、幼い千代を、夜陰にまぎれて長い抜け道を歩かせる。泣き声ひとつ、足音ひとつで、すべてが露見する。考えれば考えるほど、越えるべきものは、幾重にも重なっていた。それでも、一つずつ、片づけていくよりほかにない。
最大の壁は、城の外ではなく、城の内にあった。城下へ逃がす前に、まず、奥から二人を連れ出さねばならない。奥向きは、上臈の於松が、鵜の目鷹の目で見張っている。
「まずは、於松さまだな」
佐吉が、渋い顔で言った。明日香も、頷くほかなかった。奥を動かすには、あの厳しい老女の目を、どうにかしなければならない。しかも於松は、明日香を「危うい娘」と、はなから警戒している。
厄介なのは、於松が、ただ厳しいだけの相手ではないことだった。長く奥を仕切り、数えきれぬ人の生き死にを見送ってきた、底の知れない老女だ。半端な小細工など、たちどころに見抜かれるだろう。あの目を、どう動かすか。それが、この計画のすべての、入口だった。
味方につけるか、欺くか。いずれにせよ、最初の、そして最も高い壁が、奥の奥に、静かに立ちはだかっていた。




