第11話 立ちはだかる老女には、誰にも言えぬ悔いがあった
志乃に近づくのは、思っていた以上に、難しかった。
側室の居室は、奥のさらに奥にある。下働きの明日香が、そこへ足を踏み入れる用など、めったにない。それでも、給仕の手伝いにかこつけて廊下の先へ回ろうとすると、決まって、あの声が飛んできた。
「どこへ行く」
於松だった。白髪をきつく束ね、背筋を伸ばして、廊下の角に立っている。まるで、明日香がそちらへ動くのを、あらかじめ読んでいたかのようだった。
「志乃さまに、お茶を、と」
「たわけ。側室の御前は、中臈の役目じゃ。下郎が、奥の奥に首を突っ込むでない。おまえの持ち場は、井戸端と台所であろうが」
ぴしゃりと言われて、明日香は引き下がるほかなかった。廊下の板を踏んで戻る足が、重い。
一度や二度では、なかった。膳を運ぶ道筋を変えても、洗い物を届ける口実をつくっても、於松の目は、必ず明日香の「いつもと違う動き」を捉えた。まるで、奥じゅうに目を配る、一本の張り詰めた糸のようだった。長年、大勢の女たちを束ねてきた者の勘は、恐ろしいほど鋭い。何か企んでいる。この老女は、明日香のことを、はなから、そう見定めている。
正面から、志乃に近づくのは、無理だ。
台所へ戻る道すがら、明日香は奥歯を噛んだ。於松という壁は、想像より、ずっと高く、ずっと分厚い。あの目をどうにかしないかぎり、志乃にも千代にも、指一本、触れられない。刻限だけは、日ごと、確実に迫ってくるというのに。焦りが、じりじりと胸の内で焦げつくように募っていく。
考えあぐねて、明日香は佐吉にも相談した。だが、下人の佐吉には、そもそも奥へ立ち入る術がない。奥のことは、奥の者にしか動かせない。結局、於松という関門は、明日香自身の手で越えるしかなかった。力ずくは、論外だ。小細工を弄せば、あの鋭い勘に、たちどころに見抜かれる。ならば――正面から、向き合うしか、道はないのかもしれない。おぼろげに、そう思いはじめていた。
だが、その日の夕暮れ、明日香は、思いがけない於松の姿を見た。
洗い場の裏手に、古い供養塔が並ぶ一角がある。城で死んだ者を弔う、日の当たらぬ場所だ。誰もいないと思っていたその一角に、於松が一人、しゃがんでいた。苔むした小さな石塔の前に、摘んだばかりの野の花を供え、しばらく、じっと手を合わせている。
その背中が、いつもの厳しい老女のものとは、まるで違って見えた。丸く、小さく、どこか、ひどく寂しげだった。
明日香は、物陰から、思わず息を潜めた。
石塔は、いくつもあった。於松は、その一つ一つに、順に手を合わせていく。名も刻まれていない、古びた石。この城で、名も残さず死んでいった者たちの、墓標なのだろう。城主の墓なら、立派な戒名も刻まれよう。だが、ここに眠るのは、下女や、身寄りのない者や、名すら記録に残らなかった者たちだ。それを、季節の花を絶やさず、たった一人で弔い続けている老女がいる。誰にも、知られぬまま。
この人は、いったい、どれだけの死を、見送ってきたのだろう。
明日香の中で、於松という人の像が、少しだけ、揺らいだ。
奥を束ねる、厳格なしきたりの番人。ただ、それだけの人だと思っていた。けれど、あの丸まった背中には、長い歳月ぶんの、数えきれぬ死が、積み重なっている。厳しさの底に、何か、いつまでも癒えないものが、じっと沈んでいる。手を合わせるその横顔を盗み見て、明日香は、そう直感した。
名も残らぬ者を、忘れずに悼む人。それは、明日香がこの城でしようとしていることと、根のところで、同じではないのか。歴史が切り捨てていくものを、それでも一人、覚えている。立場は天と地ほど違えど、於松もまた、大きな流れの余白でこぼれ落ちる命に、手を合わせずにはいられない人なのかもしれない。そう思うと、あれほど高く見えた壁が、ふいに、同じ痛みを抱えた一人の老いた女の姿に、見えてきた。
翌日、思いがけず、その正体の端が、覗いた。
台所で立ち働いていると、於松が通りかかった。すれ違いざま、老女はふと足を止め、明日香を見た。いつもの、咎めるような鋭さは、そこになかった。
「おまえ。先ごろの、すぎのことだがな」
思わぬ話に、明日香は身構えた。看取りの件で、また叱られるのかもしれない。分をわきまえぬ差し出口だと。
「あれを、しまいまで、独りで看てやったそうだな。体を清め、髪まで、丁寧に整えて。誰に命じられたわけでもないのに」
「……はい。差し出た真似を、いたしました」
於松は、しばらく黙っていた。その目が、明日香を通り越して、どこか遠くを見ている。ずっと昔の、誰かの面影を、そこに探しているような目だった。
「いや」
老女の声が、めずらしく、掠れた。
「あの婆は、身寄りもなく、誰にも顧みられぬ女子であった。皆が忘れ、皆が見て見ぬふりをした。それを、おまえは、たった一人で……」
言いかけて、於松は、口をつぐんだ。言葉の続きを、無理やり喉の奥へ押し戻すように。その拳が、袖の中で、固く握られているのが見えた。
やがて、ふいに我に返ると、老女はいつもの険しい顔に戻り、「ふん。下郎の分際で、殊勝なことよ」と吐き捨てて、足早に去っていった。逃げるような、足取りだった。
明日香は、その後ろ姿を、じっと見送った。
敵意一辺倒では、なかった。あの一瞬、於松の顔をよぎった、複雑な何か。それは、看取りという行いそのものに、ただならぬ思い入れを抱く者の、顔だった。誰にも顧みられぬ者を、しまいまで看てやる――その行いが、あの厳格な老女の、いちばん柔らかい部分に、触れたのだ。厳しい壁の、そのさらに奥に、何か大きな悔いが、じっと隠されている。そんな気がしてならなかった。
もし、あの悔いの正体を知ることができたなら。於松は、敵ではなくなるかもしれない。いや、それどころか、誰よりも強い味方に変わるかもしれない。奥のすべてを掌握するあの老女が、もし後ろ盾についてくれたなら、志乃と千代への道は、一気に開ける。けれど、それは今はまだ、遠い夢物語だった。於松の心の奥に触れるには、明日香はまだ、あまりに信を得ていない。
壁に、ほんのわずか、亀裂の予感がした。
けれど、それを押し広げるより先に、明日香には、しなければならないことがあった。まず、救うべき相手そのものの心に、触れること。かたく閉ざされた、あの若い側室の扉を、どうやって開けばいいのか。答えは、まだ、どこにも見えていなかった。




