第12話 氷のような側室が、たった一人で娘の熱と闘っていた
その夜、明日香が気づいたのは、まったくの偶然だった。
夜半、厠へ立った帰り道。奥の一角から、かすかな、押し殺した声が漏れていた。子どものぐずる泣き声と、それをあやす、低い女の声。こんな刻限に。明日香は、足を止めた。
板戸の隙間から、そっと中を覗く。
灯を落とした薄暗い部屋で、志乃が、幼い千代を膝に抱いていた。千代の頬は、熱で赤く火照っている。息が浅く、速い。高い熱だ。志乃は、濡らした布で、その小さな額を、何度も何度も冷やしていた。侍女も呼ばず、たった一人で。
明日香は、目を疑った。
昼間の志乃は、氷のような女だった。誰が話しかけても、そっけなく短い言葉を返すだけ。感情のいっさいを、固い殻の内に閉じ込めている。政略でこの城に嫁ぎ、心を閉ざしたのだと、女たちが噂していた。その冷たいはずの側室が、今、髪を振り乱し、必死の顔で、我が子の熱と闘っている。
人は、これほど変わるものなのか。昼の、能面のような無表情からは、想像もつかなかった。誰にも弱みを見せず、誰も頼らず、たった一人で。侍女を呼べば、姫の発熱は、たちまち奥じゅうに知れ渡る。城主の血を引く姫が病に臥せったとなれば、要らぬ動揺を招く。それを避けてか、あるいは、この子を守ることだけは、誰の手にも委ねたくないのか。志乃は、深い孤独の中で、闘っていた。
「千代。だいじょうぶ。母が、ついていますよ。だいじょうぶ」
繰り返される声には、隠しようのない、剥き出しの情がこもっていた。政略の駒として生きる女の、ただ一つの、生きる理由。それが、この腕の中の、小さな命なのだ。明日香には、はっきりと分かった。
けれど、志乃のやり方では、熱は下がりきらない。額ばかり冷やしても、体の芯の熱は、逃げていかない。子どもの高熱は、こじらせれば、命に関わる。この時代なら、なおさらだ。
気づいたときには、明日香は、板戸を開けていた。
「――どなたっ」
志乃が、鋭く振り返った。人に見られた。その顔に、狼狽と、そして敵意が走る。「下がりなさい。誰が、入ってよいと申した」
「お手伝いさせてください」
明日香は、身分も作法も、後回しにした。膝をつき、まっすぐに志乃を見た。
「熱の逃がし方を、存じております。額だけでは、下がりませぬ。首すじと、脇の下と、足のつけ根を冷やすのです。太い血の道を冷やせば、体の熱が、早う引きまする」
志乃は、警戒を露わにしたまま、動かなかった。得体の知れぬ下女。信じてよいものか。だが、腕の中の千代の苦しげな息が、その迷いを断ち切った。
「……勝手に、なさい」
突き放すような、けれど、すがるような一言だった。
明日香の手が、動きはじめた。手ぬぐいを絞り、千代の首すじを、脇を、そっと冷やしていく。上体を少し起こし、息を楽にしてやる。白湯を含ませ、唇を湿らせる。すぎを看取ったときと、同じ手つきで。ただし今度は、まだ生きられる、幼い命のために。
看取りの手と、生かす手は、根が同じだった。相手の体をよく見て、痛みや苦しさの在りかを探り、できることを、一つずつ。派手な奇跡は、起こせない。だが、こうした小さな手当ての積み重ねが、時に、生死の分かれ目になる。それを、明日香は、幾度も現場で見てきた。
しばらくすると、千代の荒かった息が、少しずつ、和らいでいった。赤かった頬から、じわりと熱が引いていく。やがて、規則正しい寝息が、聞こえはじめた。
志乃が、詰めていた息を、ふっと吐いた。強張っていた肩から、力が抜けていく。
「……なぜ」
長い沈黙のあと、志乃が、掠れた声で問うた。
「なぜ、そなたが。奥のことに関われば、於松に叱られよう。得にもならぬのに、なぜ、ここまで」
明日香は、すぐには答えなかった。代わりに、懐から、あの小さな手鏡を取り出した。眠る千代の顔の横に、そっとかざす。曇った銅の鏡面に、あどけない寝顔が、ぼんやりと映った。
「この鏡は、亡くなった娘の、たった一つの宝物でした。貧しくて、里の家族に一度も文を出せぬまま、逝ってしまった娘のものです」
志乃の視線が、その粗末な鏡に、注がれた。
「その娘のぶんも、わたしは、生きたいのです。目の前で、救える命があるのに、見過ごしたくない。それだけの、わがままにございます」
言いながら、明日香は、鏡に映る千代の寝顔を見つめた。この曇った鏡に、いつか、生き延びたこの子の笑顔が映る日が来ますように。そう願わずには、いられなかった。
側室にとって、下女の持ち物など、本来、目に留めるほどのものでもない。だが志乃は、その安物の鏡を、じっと見つめていた。誰にも言えぬ何かを胸に抱えて生きる者どうし。身分は天と地ほど隔たっていても、二人の間に、たしかに通い合うものがあった。
志乃は、しばらく黙って、明日香の横顔を見ていた。厚い氷が、音もなく、少しずつ解けていく。そんな沈黙だった。
やがて、志乃は、眠る千代の髪を、そっと撫でた。
「わたくしを、憐れんでいるのなら、やめて」
硬い声だった。けれど、その続きは、震えていた。
「わたくしのことは、どうでもよい。政略で嫁ぎ、いずれ、この城とともに、どうなろうと。……でも、千代のことだけは。この子のことだけは、頼みます。この子には、生きて、ほしい」
声が、涙で滲んでいた。感情を殺して生きてきた女が、たった一つ、殺しきれなかったもの。それが、この子への想いだった。プライドの鎧を脱いで、志乃は初めて、他人に、頭を下げた。
明日香は、その願いを、胸の奥深くに、刻み込んだ。守る。この母子を、必ず。それは、もう「救う相手を選ぶ」という冷静な算段ではなかった。一人の母から託された、断ち切れぬ約束に、変わっていた。
憐れみでは、なかった。同情でも、義務でもない。この母と子の、生きようとする必死の姿に、明日香自身が、心を揺さぶられたのだ。救うと決めた相手を、こうして一人の人間として深く知るたびに、その手を放すことなど、もう、できなくなっていく。
だが――と、帰り道の暗い廊下で、明日香は現実に引き戻された。
守ると誓った。心も、通いはじめた。けれど、肝心の「逃がす道」を、まだ、何ひとつ持っていない。この母子を、どうやって、この城の外へ逃がすのか。その答えは、佐吉が掴もうとしている、城下の伝手の中にしか、なかった。




