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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第13話 山ひとつ越えれば助かる。だが、その山は、女子供には高すぎた

四月も半ばを過ぎたころ、佐吉が、城下への使いに、明日香をねじ込んでくれた。


寺へ、すぎの供養の布施を届ける。表向きの用は、それだった。下女が城の外へ出るには、もっともらしい口実がいる。かび臭い蔵での密談から、幾日か。二人はようやく、逃がしの「道」を、その目で確かめる機会を得た。


久しぶりに城の門をくぐると、外の空気は、思いのほか張り詰めていた。田には、まばらに人影があった。だが、いつもの田植え前の活気は、どこか薄い。百姓たちも、噂は聞いているのだろう。関白の大軍が、関東を席巻していると。手を動かしながらも、その顔には、拭いきれぬ不安が、張りついていた。畦を渡る風にさえ、どこか、焦げくさい戦の匂いが混じっている気がした。


「見な。あれだ」


城下のはずれ、田の畦道を抜けたところで、佐吉が顎で示した。その先に、鬱蒼とした山が、迫っている。


「あの山裾に、古い炭焼き道がある。今はもう、使う者もいねえ。だが、たどっていけば、尾根伝いに、関所を避けて、向こうの谷の寺に出られる。おれの遠縁の、住職の寺だ。寄せ手が攻めてくるのは、街道の正面からだ。こんな裏山の獣道まで、いちいち手は回らねえ」


明日香の胸に、久しく忘れていた高揚が、じわりと広がった。


道が、ある。城の外へ、逃れる道が。頭の中に描くばかりだった逃走が、初めて、土と草の匂いのする、現実の道筋になった。志乃と千代を、あの寺まで送り届けられれば。そこから先は、住職の伝手で、さらに遠くへ。戦火の届かぬ土地へ。そこでなら、千代は、また毬をついて笑えるだろう。志乃も、政略の鎖から解かれて、一人の母として、生きられるかもしれない。その情景を思い描くだけで、荒れた山道へ向かう足に、自然と力がこもった。絵空事ではない。この道の先に、たしかに、救いがある。そう信じたかった。


「行ってみましょう。どんな道か、この足で、確かめておきたい」


二人は、炭焼き道へ分け入った。


だが、数歩も進まぬうちに、明日香の高揚は、みるみるしぼんでいった。


道は、荒れていた。長く人が通らず、下草が膝まで茂り、朽ちた倒木が、いくつも行く手をふさいでいる。斜面は急で、足場は悪い。茨が袖を裂き、露にぬれた岩は滑った。谷側は、下を覗けば足がすくむほど、切れ落ちている。少し登っては息を切らし、明日香は、あかぎれの手で木の根を掴んで、体を引き上げた。この体は、非力な奥女中のものだ。自分の身ひとつを運ぶのさえ、容易ではなかった。


明日香は、立ち止まって、荒い息を整えた。


「……これを、夜に」


想像しただけで、血の気が引いた。灯りも持てぬ夜の闇。この急な斜面を、細身の志乃が越える。そして、四つの千代を、抱くか、背負うかして。ぬかるみに足を滑らせれば、母子もろとも、谷へ落ちる。泣き声ひとつ立てれば、闇の中に響き渡る。


もし途中で、千代がぐずったら。もし志乃が、足をくじいたら。もし、追っ手がかかったら。想定しなければならない「もし」が、登るほどに、いくつも積み上がっていく。道が見つかった安堵は、いつのまにか、その重さを背負う覚悟へと、変わっていた。


「きついよな」佐吉も、渋い顔だった。「昼でこれだ。夜なら、なおさら。姫さまが、一声でも泣きゃ、山じゅうに聞こえる」


道は、あった。だが、その道は、あまりに険しかった。


一人で越えるのとは、わけが違う。心を閉ざした側室と、滅びを知らぬ幼子。この二人を無事に越えさせるには、道を知る者、荷を持つ者、子をあやす者。幾人もの手と、綿密な段取りが要る。そして、決行の「時機」を、寸分違わず見極めねばならなかった。早すぎても、遅すぎても、すべてが破綻する。


それでも、と明日香は思い直した。道が、まったく無いわけではない。険しくとも、たしかに、そこにある。要は、この険しさを補うだけの人手と、段取りと、覚悟を、揃えられるかどうかだ。無いものを嘆いても、始まらない。あるものを、どう使うか。看護の現場で、乏しい手立てをやりくりしてきた、あの頭の働かせ方を、明日香は、ここでも思い起こした。


山を下りると、城下の様子も、来たときとは変わっていた。


見慣れぬ男たちが、数人、街道の辻に立って、行き交う人を検めている。旅装だが、目つきが鋭い。佐吉が、さりげなく明日香の袖を引き、道の端へ寄せた。


「豊臣方の、物見だ」低い声だった。「もう、この城下にまで、目を入れてきてやがる。じきに、逃げ道も、そう自由にゃ使えなくなる」


滅びの網が、外側から、じわじわと絞られていく。それを、肌で感じた。辻に立つ物見の一人と、ふと目が合った。明日香は、慌てて視線を落とし、下女らしく身を縮めて、その前を通り過ぎた。背中に、粘つくような視線を感じる。あの目が、この城下の隅々まで、じきに行き渡るだろう。逃げるなら、その網が完全に閉じる前に。刻限は、外からも、確実に迫っていた。


帰り道、二人は、しばらく無言で歩いた。


夕日が、田を赤く染めていた。行きに感じた戦の匂いは、帰りには、いっそう濃くなっている気がした。この、なんでもない田園の景色も、あと数月のうちに、軍勢に踏み荒らされ、焼かれる。分かっていて、誰にも言えず、何も変えられぬ自分が、たまらなく、もどかしかった。


やがて、佐吉が、ぼそりと言った。


「なあ、桔梗さん。おれ、正直、まだ半分は、あんたが正気なのか疑ってる。城が落ちるだの、逃がすだの。下人風情が、首を賭けるような話だ」


明日香は、何も言えなかった。彼の言うとおりだった。


「けどよ」佐吉は、前を向いたまま、続けた。「あんたは、すぎ婆さんを、たった一人で看取ってやった。誰も見向きもしねえ、あの婆さんをな。あれを見ちまったら、もう、知らんぷりは、できねえんだよ」


佐吉は、足を止めて、明日香を見た。いつもの軽薄な顔では、なかった。


「乗った。とことん、付き合うよ。あんたの言うことは、いっつも訳が分からねえ。……けど、外れたためしが、ねえからな」


胸の奥が、熱くなった。下人と下女。城の中で、最も低い場所にいる二人だ。刀も、権も、金もない。あるのは、互いへの信と、この二本ずつの足だけ。だが、その草の根の力でしか、この救いは、成し遂げられない。上から救ってくれる者など、どこにもいないのだから。


だが、城の門をくぐったとき、明日香は、奇妙な胸騒ぎを覚えた。


門番の警固が、来たときより、明らかに厳しくなっている。何かが、動いている。まだ、正体は分からない。ただ、城の内側で、何か良くないものが、静かに蠢きはじめた。そんな、嫌な予感が、拭えなかった。

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