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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第29話 氏久の名を叫んだ、その刹那、大手門が、破られた

梅雨明けの、朝日が、城を、照らしていた。


その、澄んだ光の中を、豊臣方の大軍が、津波のように、押し寄せてきた。


半鐘が、鳴りやまない。法螺貝の、地を這うような音。無数の鬨の声が、幾重にも、重なって、城を、揺さぶる。矢が、雨のように、空を裂いて、降り注いだ。城壁の上で、城兵たちが、応戦する。だが、その数は、あまりに、少なかった。


三百ほどの城兵で、幾万の大軍を防げるはずもない。それでも、鴉ノ端の兵は、逃げなかった。矢が尽きれば石を投げ、石が尽きれば、槍を構えて、押し寄せる敵に、立ち向かっていく。負けると分かっている戦。それでも、城主とともに、この城を枕に討ち死にすると、覚悟を決めた者たちだった。その一人ひとりに、名があり、暮らしがあり、帰りを待つ家族が、いたはずだった。


明日香は、廊下を、駆けていた。


飛び交う怒号。逃げ惑う、下人たち。運び込まれる、手負いの兵。城の内は、すでに、修羅場と化していた。梅雨が明けた、その朝を待って、寄せ手は、一気に、総攻めを、仕掛けてきたのだ。弥兵衛が売った、城の弱点を、余すことなく突いて。


皮肉なものだった。ひと月かけて、明日香たちが、命がけで守ろうとした、たった二つの命。その裏で、弥兵衛が売った情報は、この城の、何百という命を、より速く、より無残に、散らそうとしている。救うことの、なんと小さく、壊すことの、なんと、たやすいことか。


大手門の方角で、ひときわ、大きな喊声が、上がった。


寄せ手が、門に、取りついたのだ。丸太を打ちつける、重い音が、地響きとなって、伝わってくる。門を守る城兵たちが、必死に、防ぐ。だが、それも、長くは、もつまい。あの門が破られれば、城の内へ、大軍が、雪崩れ込む。


落城が、始まっていた。


歴史が、記した通りに。北条方の、名もなき支城が、一つ、また、時代の波に、呑まれていく。明日香が、どうあがいても、変えられなかった、大きな流れ。それが今、轟音と、土煙となって、目の前で、現実になっている。


何か月も、この日を、恐れてきた。避けられぬと知りながら、それでも、来なければいい、と願ってきた。だが、時は、無情に流れ、季節は巡り、そして、ついに、その日が来た。梅の花も、蛍の光も、千代のついた毬も、遠い記憶になり、残ったのは、この、灼けつくような朝の光と、滅びの喊声だけだった。


だが、明日香の足は、止まらなかった。


城の滅びは、止められない。それは、もう、いい。今、自分にできることは、たった一つ。あの人の、もとへ。氏久のもとへ、間に合うこと。それだけだった。


本丸へと続く、渡り廊下を、駆ける。息が、上がる。非力な、奥女中の体。すぐに、足が、もつれそうになる。それでも、明日香は、走った。転びそうになりながら、壁に手をつき、また、走る。


何度も、行く手を、塞がれた。倒れた梁。逃げ惑う人の波。それを、掻き分け、乗り越え、明日香は、ただ、本丸を目指した。この体は、剣も振るえない。誰も、守れない。だが、走ることは、できる。あの人のもとへ、駆けつけることだけは。それだけが、この非力な体に、残された、たった一つの、力だった。


間に合って。どうか、間に合って。


胸の中で、繰り返す。あの、現代の夜が、甦る。冷たくなった、田村さんの手。「また、間に合わなかった」と、泣いた、あの夜。あの後悔が、今、明日香の背を、押していた。もう二度と、あんな思いは、したくない。今度こそ、間に合う。この人の、最期の手を、握るために。


祖母のときも、田村さんのときも、間に合わなかった。看護師として、幾人もの最期に立ち会いながら、いちばん大切な瞬間には、いつも、一歩、遅れた。その悔いが、今、明日香の足を、限界の、その先へと、駆り立てる。今度だけは。今度だけは、遅れない。四百年を越えて、この体を得た意味が、もし、あるのなら。


すぎを看取った、あの手が。志乃と千代を、送り出した、あの手が。今、氏久のもとへと、明日香を、突き動かしていた。


矢が、すぐ近くの柱に、突き刺さった。悲鳴。焦げくさい、煙の匂い。どこかで、火の手が、上がっている。それでも、明日香は、前だけを、見て、駆けた。


本丸の、主殿。


その前庭に、たどり着いたとき、明日香は、氏久の姿を、捉えた。


いた。生きている。氏久は、具足を身につけ、床几に、腰を下ろしていた。刀を杖にして、まっすぐに、背を伸ばし。押し寄せる混乱の中で、ただ一人、静かに、その最期の刻を、待っている。城主として。逃げず、取り乱さず。誇り高く。


その姿は、美しかった。そして、あまりにも、哀しかった。


明日、歴史の書には、たった一行、記されるのだろう。北条方の支城、落城す、と。その一行の裏に、この人の、この覚悟が、この孤独があったことを、誰も、知らない。だが、明日香は、知っている。だからこそ、傍にいく。歴史が忘れ去る、この人の最期を、たった一人、見届けるために。


「殿さま……!」


明日香は、声を、限りに、叫んだ。氏久のもとへ、駆け寄ろうと、一歩、踏み出す。あの人の傍らへ。間に合った。まだ、間に合う。この手で、あの人を――


その、瞬間だった。


地の底から、突き上げるような、轟音が、響いた。


大手門が、破られた。


木の裂ける、凄まじい音。歓喜の、鬨の声。堰を切ったように、豊臣方の軍勢が、城の内へと、雪崩れ込んでくる。悲鳴と、怒号と、鉄の触れ合う音が、一気に、津波となって、押し寄せた。


砂塵が、舞い上がる。


前庭に、土煙が、渦を巻いて、立ちこめる。氏久の姿が、その、灰色の渦の向こうに、霞んでいく。


「氏久さま――!」


思わず、その名を、叫んでいた。奥女中が、決して口にしてはならぬ、城主の名を。


だが、その声も、雪崩れ込む軍勢の、喊声に、かき消される。明日香の視界は、渦巻く土煙に、呑まれて、何も、見えなくなった。


土煙の中で、明日香は、氏久がいたはずの方角へ、必死に、目を凝らした。何も、見えない。何も、聞こえない。それでも、この足を、止めるわけには、いかなかった。あの人が、まだ、息をしているうちに。その手が、まだ、温かいうちに。


あの人は、まだ、あそこに、いるのか。


わたしは、間に合うのか。


土煙の、向こうで。滅びゆく城の、その中心で。最後の看取りが――始まろうとしていた。

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