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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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30/30

第30話 ――また、春に

渦巻いていた土煙が、ゆっくりと、晴れていく。


その、灰色の向こうに、氏久の姿が、見えた。


床几に、腰を下ろしたまま。肩に、矢を受けていた。具足には、幾筋もの、血の跡。それでも、その背は、まっすぐに、伸びていた。押し寄せる敵兵の、只中で、たった一人、静かに、最期の刻を、迎えようとしている。


明日香は、その傍らへ、駆け寄った。


「殿さま!」


氏久が、ゆっくりと、顔を上げた。もう、視線は、遠い。だが、明日香を認めると、その口もとに、かすかな、けれど、たしかな、微笑みが、浮かんだ。


「……来て、くれたのか。桔梗」


間に合った。


明日香は、崩れるように、氏久の傍らに、膝をついた。そして、血に濡れた、その手を、両手で、そっと、包み込んだ。冷えて、いく手を。すぎの、皺だらけの手を握ったときと。まったく、同じ所作で。看護師として、幾百の手を、握ってきた、あの手つきで。


「はい。おそばに、おります。もう、どこにも、行きませぬ」


氏久の、濁りはじめた目が、明日香を、見つめた。


「奥が、静かだと、思うた。志乃と、千代は」


明日香は、涙をこらえて、頷いた。言葉には、しなかった。だが、その頷きで、氏久は、すべてを、悟ったようだった。


妻と、娘が、この城から、逃れたこと。落城の炎の、届かぬ場所へ、生きて、旅立ったこと。氏久の顔から、最後の、憂いが、消えていく。守れぬと、嘆いていた、あの人が。たった二つだけ、守られた命があると、知った。その安堵が、血の気の失せた顔に、静かな、安らぎとなって、広がった。


「そうか。そなたが、逃がして、くれたのだな」


「いいえ。皆で。あなたの、御家臣たちが」


嘘だった。半三郎の名も、於松の名も、告げなかった。ただ、この人の最期に、「家臣に、守られた」という、誇りだけを、残したかった。


氏久は、力の入らぬ指で、それでも、明日香の手を、握り返そうと、した。


「桔梗。そなたの目は、やはり、不思議な目だ。すべてを、見てきたような。……もし、生まれる時代が、違うておれば」


言葉は、そこで、途切れた。


続きを、氏久は、言わなかった。言えなかった。だが、明日香には、分かった。もし、生まれる時代が違えば。身分が、違えば。この人と、自分は。叶わぬ、口にすることさえ許されぬ、その想いを、氏久は、最後の眼差しに、託した。


「はい。わたしも、そう、思います」


明日香の頬を、涙が、伝った。握った手に、力を、込める。


「殿さま。もう、怖いことは、何もありませぬ。目を、お閉じください。わたしが、ここに、おります。最期まで、おそばに」


氏久の、張り詰めていた息が、ふっと、ゆるんだ。まるで、長い、長い戦から、ようやく、解き放たれたように。その目が、静かに、閉じられていく。


「……よい、名だと、言うたろう。桔梗、と」


それが、氏久の、最期の言葉だった。


握った手から、ゆっくりと、温もりが、引いていく。荒かった息が、細く、細くなり、やがて、止まった。喊声も、剣戟の音も、遠く、なった。城主・氏久は、恐怖ではなく、安らぎの中で、逝った。妻と娘の無事を知り、その手を、たった一人に、握られて。


明日香は、動かなくなった、その手を、しばらく、握り続けていた。


胸の奥から、あの夜の記憶が、甦る。現代の、緩和ケア病棟。冷たくなった、田村さんの手。「また、間に合わなかった」と、一人、泣いた、あの夜。


だが、今度は。


逃げなかった。遅れなかった。最期の、一息まで。この手で、握りしめた。一人には、しなかった。


涙が、あふれた。けれど、それは、あの夜の、悔いの涙とは、違っていた。深い、哀しみの底に、それでも、たしかな、肯定が、あった。


看取りは、負けではない。


現代でずっと信じ、この時代で、幾度も見失いかけた、その言葉が。今、確かな真実となって、明日香の胸に、満ちていた。救えなかった。歴史は、一片も、変えられなかった。だが、この人の最期を、たしかに、看取った。その尊厳を、守り抜いた。それは、決して、無力なことでは、なかった。


「殿さま。ありがとう、ございました」


冷たくなっていく額に、そっと、手を当てて、明日香は、囁いた。


やがて、荒々しい足音が、近づいてきた。


一人の、若い武者が、明日香の前に、立った。血刀を、提げている。豊臣方の、雑兵だろう。だが、その目に、憎しみは、なかった。ただ、事切れた城主と、その傍らで泣く、粗末な身なりの下女を、見比べている。


武者は、しばらく、明日香を、見下ろしていた。それから、静かに、言った。


「恨みは、ない。これが、いくさだ」


だが、武者は、明日香には、刃を向けなかった。静かに、踵を返す。名もなき下女など、討つ価値もない。あるいは、その涙に、何かを、見たのか。武者は、そのまま、去っていった。


明日香は、生き延びた。


歴史に、名を残さぬ者。記録の、どこにも、載らぬ者。だからこそ、救われた命が、ここにも、一つ、あった。


――それから、数か月が、過ぎた。


遠い、戦火の届かぬ土地に、ひっそりと、身を寄せる、母娘があった。


側室の身分を捨て、名も変えて、慎ましく暮らす、若い母と、その娘。娘は、日ごとに、頬を、赤くして、駆け回っている。母の顔にも、もう、あの、氷のような硬さは、なかった。政略の鎖から解かれ、ただ一人の母として、娘を育てる、穏やかな日々。


その母娘のもとには、時おり、二人の男が、訪ねてくる。


一人は、城下生まれの、気のいい若者。もう一人は、少し年下の、かつて小姓だった青年。青年は、病がちだった母を、無事に助け出し、今は、二人で、身を寄せ合って、生きている。二人は、母娘に、乏しいながらも、食べ物や、暮らしの品を、運んでくる。


皆、生きていた。


歴史の、どの一行にも、残らない。誰にも、知られない。けれど、確かに、生き延びた命が、ここに、あった。落城の炎の中から、たった一人の下女が、その無力な手で、拾い上げた、いくつもの、灯が。


その母娘の暮らす里から、さらに遠く離れた、別の土地に。


一人の女が、いた。


奥女中の「桔梗」として。そして、緩和ケアの看護師「明日香」として。二人分の生を、その身に、宿して、生きる女が。懐には、いつも、歯の欠けた木彫りの櫛と、曇った手鏡。そして、里の家族に宛てて、ついに出されなかった、あの、書きかけの文が、あった。


元の桔梗の、生きられなかった分も。看取ってきた、すべての人の、想いも。この一つの体に、抱いて。女は、静かに、生きていた。名もなき者として。名もなき者たちを、忘れずに。


その年の、春が、めぐってきた。


女は、丘の上に、立っていた。里の桜が、満開だった。ひらひらと、花びらが、青い空に、舞っている。


女は、そっと、南の空を――志乃と、千代の、暮らす方角の空を、見上げた。


きっと今ごろ、あの子も、この桜を、見ている。母の手を、握って。約束したとおりに。


女の口もとに、微笑みが、浮かんだ。頬を、一筋、涙が、伝う。けれど、それは、温かい涙だった。


「――また、春に」


風が、桜の花びらを、さらっていく。


歴史に、一行も、残らなかった、小さな城の、物語は。たった一人の、記憶の中で。静かに、確かに、いつまでも、生き続ける。


<完>

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