第28話 あの人だけは、どうやっても、救えない
抜け道を戻り、明日香が、ふたたび城の内へ、身を滑り込ませたのは、夜明けの、少し前だった。
雨は、いつのまにか、上がっていた。長かった梅雨が、明けようとしている。それは、この城にとって、終わりの合図だった。
誰もいなくなった、奥の一角に、明日香は、立ち尽くした。
昨日まで、ここに、志乃がいた。千代がいた。石を積んで遊ぶ、幼い笑い声が、あった。今は、その気配だけが、明けきらぬ薄闇の中に、うっすらと、残っている。二人は、もう、この城には、いない。守り切った。その安堵が、胸に、じんと、広がる。
そっと、志乃と千代がいた部屋を、覗いた。畳まれた夜具。片づけられた、わずかな調度。誰かが、ここで暮らしていた気配だけを残して、二人は、消えた。逃げた、のではない。生きるために、旅立ったのだ。明日香は、その空っぽの部屋に向かって、心の中で、囁いた。どうか、無事に。どうか、遠くまで。そして、いつか、次の春に、桜を。
だが、その安堵の裏で、明日香は、もう一つの現実を、噛みしめていた。
氏久を、逃がす道は、ない。
考えなかったわけでは、なかった。あの人も、志乃たちと一緒に、逃がせないか。何度も、考えた。だが、そのたびに、同じ壁に、突き当たった。氏久は、城主だ。城主が、城を捨てて、逃げる。それは、氏久が、氏久でなくなる、ということだった。
家臣も、城兵も、領民も、みな、この城と運命を共にしようとしている。その、いちばん上に立つ者が、一人だけ、逃げ出す。そんなことを、あの人が、するはずがない。いや、たとえ、無理やり連れ出したとしても――城を捨てた氏久は、もう、あの、静かで、誇り高い、氏久では、なくなってしまう。
それに、と、明日香は、思う。氏久の死は、記録に、残る。北条方の支城の城主として。歴史に刻まれた者の運命は、変えられない。手を伸ばせば、あの、災いを早める法則が、発動するだけ。
救えない。あの人だけは、どうやっても、救えないのだ。
分かっている。何度も、何度も、分かっていると、自分に言い聞かせてきた。それでも、この胸の痛みだけは、いっこうに、慣れなかった。いちばん救いたい人を、救えない。この時代へ来て、明日香が味わった、いちばん深い切なさが、そこに、あった。
明日香は、そっと、目を、閉じた。
胸の奥から、遠い記憶が、甦ってくる。現代の、緩和ケア病棟。あの、最後の夜。受け持ちだった患者を、看取れなかった夜のこと。日勤の残業に追われ、その人の意識があるうちに、戻れなかった。冷たくなった手を握って、「また、間に合わなかった」と、一人、泣いた。
あのとき、明日香は、逃げたわけでは、なかった。だが、間に合わなかった。傍に、いられなかった。その後悔が、ずっと、胸の奥に、棘のように、刺さっていた。看取りは、負けではない。そう信じながら、それでも、間に合えなかった自分を、赦せずにいた。
看護師になったのも、もとをただせば、幼い日に、祖母の最期に間に合えなかった、あの後悔からだった。以来、明日香は、人の死の傍らに、立ち続けてきた。せめて、次は、間に合いたい。せめて、次は、傍にいたい。その願いを、抱えて。だが、いつも、何かが、間に合わなかった。仕事が、時間が、運命が。手を伸ばしても、伸ばしても、いちばん大切な瞬間は、指の間を、すり抜けていった。
だが、今度は。
明日香は、拳を、握りしめた。
今度は、逃げない。間に合わなかった、ではなく。最期まで、あの人の傍に、いる。手を、握る。一人で逝かせは、しない。すぎを看取った、あの手で。あの、皺だらけの手を、しまいまで握った、あの手で。今度は、氏久の手を。
それは、救済では、なかった。氏久は、死ぬ。その事実は、変わらない。けれど、看取ることは、できる。どう死ぬか、その最期の尊厳を、守ることは。
それは同時に、明日香自身への、贖いでも、あった。
間に合わなかった、あの夜の後悔を。今度こそ、傍にいることで、越える。逃げずに、看取りきることで。この時代へ、四百年を越えて、放り込まれた意味が、もし、あるとするなら。それは、きっと、このためだったのだ。
すぎを看取ったとき、明日香は、初めて「間に合った」と、思えた。あの手応えが、今の自分を、支えている。氏久の最期にも、間に合わせる。逃げも、遅れも、しない。あの夜、握れなかった手の分まで。今度こそ、最後の一息まで、この手で、握りしめる。それが、明日香に残された、たった一つの、償いだった。
東の空が、白み、はじめていた。
板戸の隙間から、薄い光が、差し込んでくる。雲は、切れていた。梅雨明けの、澄んだ朝が、来ようとしている。皮肉なほど、美しい、夜明けだった。この光の中で、まもなく、総攻めが、始まる。
美しいと、思ってしまう自分が、哀しかった。この澄んだ朝の光の下で、大勢が、死ぬ。氏久が、城兵が、名もなき者たちが。歴史は、それを、たった一行に、するだろう。だが、その一行の中には、一人ひとりの、生きた温もりが、あった。せめて、そのうちの一人の傍らに、自分は、いる。それだけが、この非情な朝に、明日香の抗える、唯一のことだった。
明日香は、乱れた髪を、手で整え、襟を、正した。
奥女中「桔梗」として。そして、緩和ケアの看護師「明日香」として。二人分の想いを、この一つの体に、宿して。明日香は、静かに、立ち上がった。
行こう。あの人の、もとへ。
まだ、氏久は、本丸に、いるはずだ。最期の刻を、城主として、迎えようとしている。その傍らへ。間に合ううちに。
明日香は、白みゆく廊下を、歩き出した。一歩、一歩、確かめるように。もう、迷いは、なかった。
そのときだった。
遠く、大手門の方角から、地を揺るがすような、鬨の声が、上がった。
法螺貝が、鳴り響く。半鐘が、けたたましく、打ち鳴らされる。寄せ手が、動いた。梅雨が明けた、その朝に。ついに、鴉ノ端の城へ、総攻めの、第一波が。
落城の、朝が、来た。
覚悟していた、その刻が、ついに。頭の中の、教科書の一行が、今、生々しい鬨の声となって、この城を、呑み込もうとしている。だが、明日香に、怯えは、なかった。恐怖よりも、ただ一つの、切実な願いが、勝っていた。間に合いたい。あの人の、最期に。
明日香は、駆け出した。氏久のもとへ。間に合ってくれと、祈りながら。




