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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第27話 行きなさい、生きなさい。闇の向こうへ、二つの命を送り出した

その夜、梅雨の最後の雨が、城を、深い闇で包んでいた。


雨音が、足音も、衣擦れも、すべてを、消してくれる。決行には、これ以上ない、闇だった。


奥の一角。於松が、灯を掲げ、女中たちを、遠くの局へと、巧みに払っていた。「今宵は、皆、こちらへ。物騒ゆえ、固まって休むのじゃ」。長年、奥を仕切ってきた老女の一声に、誰も、逆らわない。見張りの目が、ぽっかりと、空いた。


於松の、面目躍如だった。四十年、この奥で、数えきれぬ女たちを束ねてきた老女だ。誰が、いつ、どこで気を抜くか。どの口が、手薄になるか。そのすべてが、頭に入っている。かつて救えなかった姫の面影を、今、志乃と千代に重ねて、老女は、その持てる力の、すべてを、この一夜に、注いでいた。


その隙を、明日香は、突いた。


眠る千代を、志乃が、しっかりと抱く。二人には、粗末な、下女の着物を、着せてあった。明日香と於松が、前後を固め、音を立てぬよう、暗い廊下を、進む。半三郎が、先を行き、見張りの位置を、手振りで、報せてくる。小姓として城の内を知り尽くした少年の案内は、正確だった。


物見櫓の、松明の明かりが、雨の向こうに、滲んでいる。その光の届かぬ、影から影へ。息を殺し、心の臓の音さえ、聞こえぬように。一歩、また一歩。露見すれば、すべてが、終わる。


台所の裏手、井戸の脇。そこに、忘れられた、古い水の手の口が、あった。


佐吉が、蓋代わりの板を、そっと、外す。ぽっかりと、闇へ続く、穴が開いた。かび臭い、水の匂いが、立ちのぼる。この、細い抜け道が、城の外へ、炭焼き道へと、繋がっている。逃走の、命綱。


「ここからは、おれと、半三郎が」佐吉が、囁いた。「桔梗さんは、出口まで。そこで、お別れだ」


一人ずつ、身をかがめて、闇の穴へ、潜っていく。冷たい水が、足首を浸す。手探りで、じめじめとした岩肌を、伝っていく。千代が、目を覚まし、ぐずりかけると、志乃が、その口を、そっと胸に、押しつけて、あやした。誰も、一言も、発しない。長い、長い、闇の道行きだった。


何度も、心の臓が、止まりそうになった。頭上を、見回りの足音が、通り過ぎる。水の滴る音にさえ、息を潜める。千代が、少しでも声を上げれば。志乃が、足を滑らせれば。すべてが、水の泡になる。明日香は、志乃の背に手を添え、一歩ごとに、無事を祈った。この闇さえ、抜ければ。この闇の向こうにこそ、二人の、生きる未来がある。


やがて、前方に、かすかな、夜の光が、見えた。


抜け道の、出口だった。城の、外。


一同は、雨の降りしきる、山裾の茂みに、転がり出た。振り返ると、雨の闇の向こうに、鴉ノ端の城が、黒々と、そびえている。もう、あの城の、外にいる。志乃と千代は、城の縛めから、逃れたのだ。


明日香は、志乃の手を、両手で、握った。


「ここまでです。この先は、佐吉と半三郎が、お寺まで、お連れします。そこから先も、住職さまが、遠くへ逃がしてくださる。もう、大丈夫」


志乃の目から、涙が、あふれた。雨と、混じって、頬を伝う。


「そなたは……本当に、来ないのですね」


「はい。わたしは、戻ります」


志乃は、握られた手を、握り返した。強く、強く。まるで、その手に、明日香の命ごと、刻みつけるように。


「……ありがとう。この恩は、生きているかぎり、忘れませぬ。そなたのことは、千代にも、必ず、語り継ぎます。桔梗という、命の恩人がいた、と。そなたも、どうか、どうか」


言葉に、ならなかった。だが、明日香には、分かった。あなたも、必ず、生きて。志乃は、そう、言おうとしている。叶わぬと、薄々、悟りながら。


救えないのは、氏久だけでは、なかった。志乃も、聡い人だ。恩人が、死ぬために城に残る。その理不尽を、噛みしめている。それでも、志乃は、生きねばならない。千代のために。明日香に託された、命のために。生き延びることが、この母に課された、いちばん重く、いちばん尊い、務めだった。


明日香は、ただ、微笑んで、頷いた。


「行ってください。振り返らず、まっすぐ、前へ。千代さまを、次の春へ、連れていってあげて」


それは、明日香が、志乃に贈る、餞の言葉だった。振り返れば、心が、挫ける。この城への未練も、恩人を置いていく罪の意識も、すべて背に負ったまま、それでも、前へ。生きるとは、きっと、そういうことだ。千代の手を引いて、母は、歩き出さねばならない。


そのとき、志乃の腕の中で、千代が、目を覚ました。


眠そうな目で、あたりを見回し、それから、明日香を、見つける。雨に濡れた明日香の顔を、小さな手が、不思議そうに、撫でた。


「桔梗、ないてるの?」


「ううん。雨よ。さあ、千代さま。母さまと、お出かけよ。楽しい、ところへ」


佐吉が、志乃を促す。半三郎が、先に立つ。母子の姿が、雨の茂みの、その奥へ、遠ざかっていく。


数歩、行って、千代が、くるりと、振り返った。


小さな手を、力いっぱい、振る。雨と闇の中で、その声だけが、明るく、澄んで、響いた。


「桔梗! また、はるに、さくら、みようね! やくそく!」


明日香の胸が、震えた。涙が、堰を切って、あふれ出す。雨に紛れて、それを、拭いもしなかった。


「……うん! 約束!」


精いっぱいの声で、応える。その小さな背中が、母の手に引かれて、闇の向こうへ、消えていった。守り切れた。歴史に、名も残らぬ、二つの命を。落城の炎から、たしかに、逃がし切ったのだ。


明日香は、しばらく、その場に、立ち尽くしていた。


手のひらに、まだ、千代の、小さな手の温もりが、残っている。志乃の、涙の熱が、残っている。この温もりのために、自分は、この時代へ、来たのかもしれない。そう、思えた。


歴史は、一行も、変わらなかった。鴉ノ端の城は、明日、落ちる。氏久は、死ぬ。それは、動かない。けれど、その動かせない歴史の、ほんの片隅で。教科書の、どの一行にも載らない場所で。志乃と千代という、二つの命が、たしかに、別の結末へと、歩き出した。それは、明日香にしか成し得なかった、小さな、けれど、確かな奇跡だった。


だが、感傷に、浸ってはいられなかった。


明日香は、涙を拭い、再び、闇の抜け道へと、身を沈めた。城へ、戻るために。救う者としての役目は、終わった。次は、看取る者として。心が、静かに、切り替わっていく。逃がしの涙が、乾かぬうちに、今度は、看取りの覚悟を、抱き直す。救える者は、救った。だが、城には、まだ、救えない人が、一人、残っている。


夜が明ければ、あの人を――氏久を、看取らねばならない。

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