第26話 なあ桔梗。わしは、この城の皆を、どこにも連れて行ってやれぬ
その夜、明日香は、於松に呼ばれた。
「殿が、酒を所望じゃ。給仕を、おまえに、と」老女は、そう言って、明日香の目を、じっと見た。「今宵が、最後になろう。行ってやれ」
於松は、すべてを、察していた。明日香が、志乃たちを逃がしたあと、この城に残ること。そして、誰を看取ろうとしているのかを。この給仕は、老女の、不器用な、けれど深い、計らいだった。
明日香は、酒器を手に、長い廊下を歩いた。一歩ごとに、覚悟が、重くなる。この夜が、氏久と言葉を交わせる、最後になるだろう。救えないと知っている人と、二人きりで過ごす、たった一夜。何を話せばいいのか。いや、話すことなど、いらないのかもしれない。ただ、傍にいる。看取りとは、いつも、そこから始まった。
本丸へ上がるのは、初めてだった。下女の身では、生涯、足を踏み入れることのない場所。その最も奥の、城主の私室へ、こうして通される。皮肉なものだ、と明日香は思った。身分の壁が、いちばん低いこの身を、ずっと、氏久から隔ててきた。その壁が、皆が寝静まった、この最後の夜にだけ、そっと、消えていた。
灯を落とした部屋で、氏久が、一人、脇息にもたれて、盃を傾けていた。明日の総攻めを控え、供の者も、下げているらしい。鎧を解いた、白い寝衣姿。その背は、いつも家臣の前で見せる、凛とした城主のものより、ずっと、小さく見えた。
「来たか。ようやく、静かになった」
明日香は、無言で膝をつき、盃に、酒を満たした。
しばらく、二人のあいだに、言葉は、なかった。庭で、雨上がりの蛙が、鳴いている。酒の香りと、湿った夜気。灯心の、じりじりと燃える音。明日香は、盃が空けば、また静かに満たした。それ以上のことは、しなかった。この人が、口を開きたくなるまで、ただ、待った。急かさず、寄り添う。それも、看取りの、大切な作法だった。
「明日、寄せ手が、総がかりで参る」
ぽつりと、氏久が言った。独り言のような、口調だった。
「この城は、明日、落ちる。わしも、明日で、終いだ。分かっていて、なお、逃げぬのだから、我ながら、愚かなものよ」
「殿さま」
「よい。慰めは、いらぬ」
氏久は、力なく、笑った。それから、その笑みが、ゆっくりと、崩れていく。城主の、威厳の鎧が、静かな夜と、酒に溶けて、剥がれ落ちていった。
「なあ、桔梗」
名を、呼ばれた。氏久が、明日香を、まっすぐに、見ている。井戸端で会った、あの夜のように。ただの下女ではなく、一人の人間として。
「わしはな。この城の、皆を、どこにも、連れて行ってやれぬ。家臣も、女子供も、下人の一人さえ。城主というのは……存外、無力なものだな」
その声に、明日香の胸が、締めつけられた。
これが、氏久という人の、素顔だった。負け戦を悟りながら、逃げることを、己に許さない。その揺るぎない覚悟の、内側で。本当は、この人は、誰よりも、皆を守れぬ自分を、責め続けていた。
氏久は、家臣の名も、領民の名も、覚えている人だった。すぎのような下女の看取りにさえ、耳を留め、労う人だった。人を、駒ではなく、一人ひとりの命として、見ている。だからこそ、その全員を守れぬことが、この人には、耐えがたい。強くて、優しい人ほど、無力の痛みは、深い。明日香には、それが、痛いほど、分かった。現代の病棟で、救えぬ命を前に、幾度も味わった、あの痛みと、同じだったから。
「……守れぬことは、無力とは、違うと思います」
明日香は、静かに、言った。
「守れなくても、傍にいることは、できます。手を、握ることは、できます。最期のときまで、あなたが、一人ではないと、伝えることは。それは、決して、無力なことでは、ありませぬ」
すぎを看取ったときから、明日香が、信じ続けてきた言葉だった。氏久が、はっと、明日香を見た。
その目が、揺れていた。この下女は、なぜ、そんなことを言うのか。まるで、これから、誰かの最期を、看取ろうとしている者のような。氏久は、明日香の瞳の奥に、何かを、見ようとした。だが、その奥にあるものを、掴むことは、できなかったろう。四百年後から来た、などという真実は、誰にも、想像すらできない。ただ、この下女が、途方もない哀しみと、覚悟を抱えていることだけは、伝わったはずだった。
明日香は、目を、逸らさなかった。だが、何も、告げなかった。
志乃と千代を、今夜、逃がすことも。自分が、この城に、残ることも。そして、あなたを看取るために残るのだ、ということも。すべてを、胸の奥に、しまい込んだ。告げれば、氏久は、きっと、逃げろ、と言う。自分のことより、他人を。城主でありながら、いや、城主だからこそ、この人は、最後まで、そう生きる。だからこそ、明日香は、黙っていた。明日、この人が、心置きなく、城主として散れるように。余計な気を、遣わせないために。
ただ一つ、心残りが、あった。逃がした志乃と千代のことだけは、この人に、伝えたかった。あなたの妻と娘は、生き延びます、と。それが、この人の、最期の安らぎになるのなら。だが、それを告げれば、逃亡の企ても、露見しかねない。明日香は、その言葉さえ、飲み込むしかなかった。せめて、心の中で、固く念じた。あなたの大切な人は、わたしが、必ず、守ります、と。
「そなたの目は……不思議な目だ」
氏久が、呟いた。
「まるで、ずっと先の、何もかもを、見てきたような。この乱世に、そのような目をした下女がいるとは、な」
明日香は、ただ、微笑んだ。
その笑顔の裏で、心が、静かに、泣いていた。この人を、救えない。歴史が、そう決めている。明日、この人は、死ぬ。それでも、せめて、その最期の傍らに。この人が、一人で、逝かぬように。
やがて、明日香は、暇を告げて、氏久の居室を、辞した。廊下に出ると、蛙の声が、やんでいた。雲の切れ間から、月が、冴え冴えと、照っている。梅雨が、明ける。夜明けとともに、総攻めが、始まる。
氏久と過ごした、あのわずかな時間が、明日香の胸に、灯のように、残っていた。あの人の、素顔。孤独。優しさ。それらを知ってしまったことが、看取りの覚悟を、いっそう重く、そして、確かなものにした。救えない。だが、看取る。その決意は、この夜に、揺るぎないものへと、変わった。
だが、その前に。この夜のうちに、果たさねばならないことが、あった。
奥へと戻る廊下の、暗がりに、二つの影が、待っていた。佐吉と、半三郎だった。二人が、緊張した面持ちで、明日香に、頷く。
刻は、来た。今夜、志乃と千代を、この城から、逃がす。




