第25話 生き残る者だけが正しいと信じた男は、その論理に殺された
その報せを、明日香に伝えたのは、半三郎だった。
決行を翌日に控えた、その日の夜半。半三郎が、青ざめた顔で、蔵に駆け込んできた。
「桔梗どの。弥兵衛が……様子が、おかしいんです」
弥兵衛は、追い詰められていた。半三郎という、内通の手足を、失ったからだ。母の命で縛りつけていた少年が、その支配を脱し、逆に、城内の弥兵衛の動きを、明日香たちに、逐一、伝えるようになっていた。
半三郎という耳と目を失った弥兵衛は、もはや、明日香たちの動きを、先読みできなくなっていた。それだけではない。半三郎が味方に転じたことで、弥兵衛の企ての全貌が、こちら側に、筒抜けになった。あれほど恐れた内通者は、いつのまにか、その牙を、抜かれていた。誰かに剣を向けられたわけでもなく、ただ、虐げていた少年の心が、離れただけで。
「あの男、今夜、城を、抜け出すつもりです。豊臣方の陣へ。約束の、助命を、確かめに行くと」
明日香は、半三郎とともに、物見櫓の陰から、城の裏手を、うかがった。
梅雨の、雲の切れ間に、細い月が出ていた。その仄かな明かりの下を、頭巾で顔を隠した男が、一人、忍び足で、裏の小門へ向かっていく。弥兵衛だった。手には、財を詰めたのだろう、重そうな包みを、抱えている。
城が落ちる前に、いち早く、沈む船から、次の岸へ渡る。それが、あの男の、生き方だった。城主も、城兵も、女子供も、すべてを敵に売り、その見返りに、自分と一族だけの、助命を得る。抜かりなく、立ち回ってきたつもりだったのだろう。
だが、と、明日香は、闇の中の、その背中を、見つめた。
弥兵衛は、一つ、見落としていた。
自分を「賢い」と信じる者ほど、他人もまた、賢く、非情であることを、忘れる。豊臣方にとって、弥兵衛の内通は、この城を落とすための、便利な道具に、すぎなかった。城の弱点も、水の手も、もう、聞き出した。手引きの約束も、書状に、取り付けた。ならば――用済みの内通者など、どこにも、必要なかった。
小門を抜けた弥兵衛の影が、闇に向かって、何か、合図を送った。
味方だと、信じていたのだろう。約束された助命が、そこにあると。だが、闇の中から現れたのは、迎えの使者では、なかった。数人の、黒い影。豊臣方の、雑兵たちだった。
短い、くぐもった悲鳴が、夜気を、裂いた。
抵抗する間も、財を差し出す間も、なかったのだろう。影たちは、用済みの道具を始末するように、手際よく、弥兵衛を、闇の中へ、引きずり込んだ。抱えていた包みだけが、ぬかるみに、転がり落ちる。それきり、静かになった。
明日香は、その一部始終を、物見の陰から、じっと見ていた。
裏切り者は、裏切られた。
「生き残る者だけが、正しい」。そう信じて、あらゆる非情を正当化した男は、まさにその論理によって、自分より非情な者たちに、あっけなく、切り捨てられた。用済みの駒は、始末する。彼が、半三郎を切り捨てようとしたように。彼が、この城を、売り渡したように。彼の撒いた種は、そっくりそのまま、彼自身の身に、返ってきた。
明日香は、この男を、憎んだ。志乃と千代の逃げ道を塞ぎ、半三郎を地獄に突き落とし、氏久を裏切った男を。何度、その企てを、暴いてやりたいと思ったか。だが、明日香は、指一本、この男に、手を下してはいない。下女の身では、裁く力など、なかった。ただ、救うべき者を、一人ずつ、救ってきただけだ。半三郎を、赦しただけだ。その積み重ねが、めぐりめぐって、この男の足もとを、崩した。悪を滅ぼしたのは、明日香の手ではなく、悪、それ自身だった。
因果応報とは、こういうものかもしれない。
明日香は、その光景に、溜飲を下げは、しなかった。ざまあみろ、とも、思わなかった。ただ、静かな、諦めにも似た、哀しさが、胸に、広がっていた。
もし、あの男が、違う生き方を選んでいたら。滅びゆく城で、それでも、誰かの手を握ろうとする側に、立っていたら。その末路も、違ったのかもしれない。だが、彼は、最後まで、「生き残る者だけが正しい」と信じ、その信念に、殉じた。誰に裁かれるでもなく、自らの論理に、殺されたのだ。
明日香は、手を合わせも、しなかった。ただ、目を、伏せた。
裁くことは、しない。嘲ることも、しない。ただ、一人の男が、その生き方の果てに、たどり着いた場所を、見届ける。看取るのとも違う、けれど、それに近い、静かな眼差しで。それが、明日香に、できる、精いっぱいだった。
これでいい、と思った。もし、この手で弥兵衛を裁いていたら。憎しみに任せて、あの男を陥れていたら。自分もまた、あの男と同じ、非情の側へ、堕ちていただろう。裁かず、看取る側に立ち続けること。それだけが、この滅びゆく城で、明日香が守り抜いた、たった一つの、譲れぬ矜持だった。
隣で、半三郎が、拳を握りしめて、震えていた。
自分と母を、地獄に突き落とした男の、あっけない最期。憎しみと、それが晴れた戸惑いとが、その顔に、入り混じっている。明日香は、その肩に、そっと、手を置いた。
「終わったの。もう、あなたを縛るものは、いない」
半三郎は、こくりと、頷いた。目に、涙が、滲んでいた。
弥兵衛が消えたことで、皮肉にも、一つ、はっきりしたことがあった。
内通者が、城の内情を、あれだけ敵に流したのだ。もはや、この城の守りに、隠す秘密は、ない。手薄な箇所も、水の手も、すべて筒抜け。落城は、これで、最終的に、確定した。梅雨さえ明ければ、城は、ひとたまりも、あるまい。
だが、その事実は、逃がしにとっては、皮肉な追い風でも、あった。攻城が近いほど、城の内は、混乱する。その混乱に紛れれば、志乃と千代を連れ出す隙も、生まれる。悪が撒いた滅びの種は、同時に、救いの一縷の望みをも、育てていた。何もかもが、紙一重だった。
明日香は、夜空を、見上げた。雲が、切れはじめている。じきに、梅雨が、明ける。
変えられなかった。城の滅びも、弥兵衛の末路も。歴史の、大きな流れは、一片も、動かなかった。けれど――その狭間で、救える者を救う、最後の夜が、明日に、迫っている。
だが、その前に。
明日香には、もう一つ、果たさねばならない、静かな約束が、あった。落城の前夜。あの人と、氏久と、最後の時間を、過ごすこと。夜が明ければ、すべてが、終わる。




