表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/30

第24話 一緒に逃げましょう、と志乃は言った。わたしは残ります、と桔梗は答えた

落城の前夜が、間近に迫った、その宵。


明日香は、於松の手引きで、ひそかに、志乃の居室へ、通された。灯を落とした部屋で、志乃が、眠る千代を傍らに、待っていた。もう、逃亡の計画の大筋は、於松を通じて、伝えてある。今夜は、その最後の、細かな段取りを、詰めるためだった。


明日香は、声を落として、順を追って、話した。


決行は、明日の夜。総攻めの、前の晩。於松が奥の目を欺き、半三郎が見張りの隙を作り、佐吉が抜け道の先で待つ。その手引きで、志乃と千代を、城の外へ。炭焼き道を越え、城下はずれの寺へ。そこから、さらに遠い、戦火の届かぬ地へ。


言葉にすると、それは、夢物語のように、頼りなく響いた。だが、四人で、幾晩もかけて練り上げた計画だった。綻びは、一つずつ、潰してきた。あとは、決行の夜を、待つだけ。明日香は、できるかぎり志乃を安心させるように、一つ一つ、丁寧に、道筋を説いた。


志乃は、じっと、聞いていた。話が進むにつれて、その頬に、血の気が、戻っていく。閉ざされていた瞳に、生きるという、意志の光が、灯りはじめた。


「本当に、逃げられるのですね。千代を、生かして、やれるのですね」


「はい。必ず」


志乃の目に、涙が、盛り上がった。政略の駒として、諦めることだけを覚えてきた女が、初めて、明日という日に、希望を、抱いた。それは、明日香がこの城で幾度も見た涙とは、違う涙だった。諦めでも、悲しみでもない。生きられるかもしれない、という、希望の涙。その一粒を、明日香は、確かに、この人の頬に、灯すことができた。


だが、明日香が、最後の段取りを告げたとき、志乃の表情が、凍りついた。


「今、なんと、申しました」


「わたしは、ご一緒しません。お二人を、抜け道の入口までお送りしたら、そこで、お別れです。城の外へは、佐吉と半三郎が、お供します」


「なぜ」


志乃が、明日香の手を、掴んだ。冷たい指が、震えている。


「なぜ、そなたは、来ないのです。一緒に、逃げましょう。そなたも、生きられる。ここにいれば、死ぬのですよ。あの大軍に、この城は、呑まれる。分かっているでしょう」


「分かっています」


「なら、なぜ!」


志乃の声が、悲鳴のように、跳ね上がった。眠る千代が、身じろぎする。志乃は、はっと口を押さえ、それでも、涙を溜めた目で、明日香を、責めるように、見つめた。


「そなたのおかげで、わたくしと千代は、助かる。なのに、当のそなたが、死ぬというの。そんな、そんな道理が、あるものですか」


その責める声に、明日香は、胸を突かれた。志乃の言うことは、正しい。助けた相手だけが生き延び、助けた本人が死ぬ。理不尽だ。誰が聞いても、そう思うだろう。だが、明日香にとっては、それが、いちばん道理にかなった選択だった。救える者は、逃がす。救えない者は、看取る。その線引きの、こちら側に、明日香は、自分から、立とうとしていた。


明日香は、掴まれた手を、そっと、握り返した。多くは、語らなかった。語れば、志乃を、いっそう苦しめる。ただ、静かに、微笑んで見せた。


「この城には、まだ、わたしが、見送らなければならない人が、いるのです」


その一言に、志乃が、息を呑んだ。


賢い人だった。明日香が、誰のことを言っているのか、その一言で、悟ったのだろう。城主、氏久。この城と、運命を共にすると決めた、あの人。救えないと分かっている人。それでも、その最期の傍らに、いようとする、明日香の覚悟を。


救えないなら、せめて、看取る。志乃には、その意味が、痛いほど、分かったはずだ。志乃自身、救われぬと知りながら、この城の側室として、生きてきたのだから。救う者と、看取る者。明日香が背負おうとしている、その二つの重さを、志乃は、誰よりも、深く理解した。


それでも、志乃は、なお、明日香の手を、握りしめて、放そうとしなかった。理解することと、受け入れることは、違う。恩人を死地に置いて、自分だけが、生きて逃げる。その痛みを、志乃は、これから生きているかぎり、背負っていくことになる。


「そなた……まさか、殿を」


「志乃さま。どうか、それ以上は」


明日香は、静かに、首を振った。その目に宿っていたのは、悲壮でも、諦めでもなかった。すぎを看取ったときと、同じ。人の最期に寄り添うことを、負けとは思わない者の、澄んだ、静かな光だった。


志乃は、言葉を、失った。止められない、と悟ったのだろう。この下女の覚悟は、自分の懇願くらいでは、揺るがない。それは、志乃が、我が子を守る決意を、誰にも曲げられないのと、同じ種類の、強さだった。


志乃の頬を、涙が、伝った。今度は、希望の涙では、なかった。


そのとき、傍らで、千代が、目を覚ました。


寝ぼけ眼で、明日香を見つけると、その顔が、ふにゃりと、ほころぶ。小さな手を伸ばして、明日香の袖を、握った。


「桔梗、いた」


「起こしちゃった? ごめんね」


千代は、明日香の膝に頭を預けて、とろとろと、また眠りに落ちかけながら、呟いた。


「ねえ、桔梗も、いっしょに、いく? また、みんなで……はるに、さくら、みようね」


明日香の胸が、締めつけられた。


この子は、知らない。明日の夜、明日香が、この手を放すことを。そして二度と、一緒に桜を見ることは、ないだろうことを。


けれど、それでいい、と思った。この子が、笑ったまま、この城を出ていけるのなら。別れの悲しみは、大人が引き受ければいい。千代は、ただ、無邪気に、明日香との再会を、信じていればいい。その信じる気持ちが、遠い地で、この子を生かす、力になる。


明日香は、千代の、やわらかな髪を、そっと撫でた。声が、震えないよう、精いっぱいだった。


「……うん。また、ね」


嘘とも、本当ともつかぬ、返事だった。せめて、この子の夢の中でだけは、その約束が、叶いますように。そう祈りながら、明日香は、眠りに落ちた幼子の額に、そっと、唇を寄せた。


やわらかく、あたたかい額。すこやかな寝息。この温もりを、明日、遠くへ、逃がす。それが、明日香に残された、数少ない、確かな救いだった。守り抜く。この子と、この母を。たとえ、自分は、この城に、朽ちることになっても。


明日の夜。すべてが、動きだす。救う者と、看取る者。明日香の、二つの役目が、果たされる、その刻が、迫っていた。


だが、その夜が明ける前に――保身のために城を売った男の運命が、静かに、そして無残に、暗転しようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ