第23話 逃げ道が、塞がれていく。決行を、早めるしかない
六月も半ばを過ぎ、梅雨の雨が、いよいよ、城を追い詰めていた。
異変を知らせたのは、半三郎だった。味方に転じた少年は、城の内から、貴重な報せを、運んでくるようになっていた。
「桔梗どの。……よくない、報せです」
蔵に集まった一同の前で、半三郎は、声を落とした。
「弥兵衛が、豊臣方に渡した書状。あの中に、城の水の手のことが、書かれていました。水の手といえば、あの、炭焼き道に、通じる方角です」
明日香の血の気が、引いた。
弥兵衛は、城の裏手の地形を、敵に売っていた。その中に、明日香たちが、命綱と頼む、あの抜け道の方角も、含まれていたのだ。案の定、その翌日から、寄せ手の一部が、城の裏山の方面にも、兵を割きはじめた。街道の正面だけでなく、逃げ道そのものが、じわじわと、塞がれていく。
皮肉なことだった。あの炭焼き道を見つけたときは、光明に思えた。険しくとも、たしかにそこにある逃げ道だと。だが、その道さえ、弥兵衛の売った一枚の書状で、危うくなる。城の中に敵がいるとは、こういうことだった。どんなに知恵を絞っても、その裏で、こちらの手の内が、そっくり、敵へ流れていく。
「このままじゃ、抜け道も、使えなくなる」
佐吉が、絵図を睨んで、呻いた。「敵が、あの尾根まで、押さえちまったら、おしまいだ。逃げるどころか、山で、待ち伏せに遭う」
計画の、土台そのものが、崩れかけていた。
弥兵衛の内通は、明日香たちの救済を、根こそぎ、脅かしていた。あの男は、自分の助命のために、城を売っている。そして、その巻き添えで、名もなき母子を救おうとする、細い細い一本の道まで、踏み潰そうとしている。悪意すら、ないままに。
「……決行を、早めるしかない」
明日香は、絞り出すように、言った。
「あの尾根が、完全に塞がれる前に。志乃さまと千代さまを、逃がす。もう、悠長に、時機を待ってはいられない」
その言葉に、一同が、息を呑んだ。
そのとき、外から、地鳴りのような、音が響いてきた。
蔵を出て、物見に上がると、城下の彼方に、おびただしい数の、幟が、翻っていた。梅雨の霧の向こうに、寄せ手の本隊が、続々と、布陣を固めつつある。無数の陣幕、槍の穂先の煌めき。それは、もはや、先鋒などという規模では、なかった。
見渡すかぎりの、軍勢だった。梅雨の霧が晴れるたびに、その数は、増えているように見えた。一つ一つの陣に、何百、何千という兵がいる。対する鴉ノ端の城兵は、雑兵を入れても、三百ほど。勝負に、なるはずもなかった。数の差が、そのまま、この城の運命だった。抗いようのない、時代の重み。それが、砂塵と幟の群れとなって、目の前に、横たわっていた。
「本隊が……着いた」
隣で、於松が、呻いた。長く城の興亡を見てきた老女の顔にも、隠しきれない、緊張が走っている。
「あれだけの数だ。攻城は、もう、数日と待たぬ。梅雨さえ明ければ、総攻めが、始まる」
明日香は、その光景を、目に焼きつけた。頭の中の、教科書の一行が、今、目の前で、圧倒的な現実となって、この小さな城を、呑み込もうとしている。北条は、滅ぶ。この城も。それは、指一本、動かせない。
何度、覚悟したはずでも、こうして本物の大軍を目にすると、膝が、震えた。あの中の、たった一人の兵の槍が、この城の、誰かの命を、奪う。氏久の命も、いずれ、あの中の、誰かの手にかかって。それは、もう、決まっている。歴史が、そう記している。分かっていて、なお、受け入れがたい現実が、そこに、あった。
だが、その動かせない大きな流れの、狭間で。
救える命が、まだ、ある。
その夜、蔵に、四人が、顔を揃えた。明日香、於松、佐吉、そして、半三郎。身分も、立場もばらばらな、けれど、一つの願いで結ばれた、四人。
「逃がしは、落城の前夜に、決行する」
明日香は、皆を、順に見た。
「攻城が始まれば、城の内も外も、大混乱になる。その混乱こそが、二人を連れ出す、最後の、そして最大の好機。ぎりぎりまで、引きつけて、総攻めの、前の晩に、動く」
危険な賭けだった。一日、読みを誤れば、逃げる前に、城が落ちる。あるいは、逃げる途中で、攻城に巻き込まれる。だが、それしか、道はなかった。
「わたしは、奥の目を、欺く」於松が、静かに言った。「命に、代えても」
「おれは、城の内の、動きを見張る」半三郎が、続く。「見張りの隙は、おれが、作ります」
「道案内と、寺への繋ぎは、おれだ」佐吉が、拳を、握った。「へっ、こうなりゃ、やってやる」
軽口を叩きながらも、佐吉の目は、真剣だった。この男も、腹を、括っている。ばらばらだった四つの覚悟が、蔵の薄闇の中で、一つの、固い意志へと、束ねられていった。
四人の、覚悟が、一つになった。
誰も、生きて帰れる保証など、ない仕事だった。露見すれば、四人とも、無事では済まない。それを承知で、皆、迷わなかった。於松は、四十年前の悔いを晴らすために。半三郎は、赦された命の、贖いのために。佐吉は、下人の意地で。そして明日香は、看護師として、救える命を、見捨てないために。それぞれの理由を胸に、四人は、同じ一点だけを、見据えていた。
武力も、権力もない。城でいちばん低い者たちが、それぞれの、できることを持ち寄って、たった二つの命を、救おうとしている。歴史には、決して残らない、名もなき者たちの、最後の戦いが、始まろうとしていた。
その夜、明日香は、一人、志乃と千代の顔を、思い浮かべた。
明日には、あの母子に、逃亡の計画を、打ち明けねばならない。そして、別れを、告げねばならない。二人を、生きて、次の春へ、送り出すために。
だが――明日香の胸には、まだ、誰にも告げていない、一つの決意が、あった。
志乃と千代は、逃がす。けれど、自分は。
明日香は、この城に、残るつもりだった。
志乃と千代を、次の春へ送り出す。それが、救える者への、救い。そして、救えない、あの人を――氏久を、最期まで、看取る。それが、救えない者への、せめてもの、救い。逃げれば、志乃たちと、生きられるかもしれない。だが、そうすれば、あの人は、たった一人で、逝くことになる。名を覚えてくれた、あの人が。それだけは、明日香には、どうしても、できなかった。
共には、逃げない。逃げられない。この城には、まだ、見送らねばならない人が、一人、いるのだから。




