第22話 あなたは悪人じゃない。母さんを、守りたかっただけでしょう
翌朝も、雨だった。
明日香は、約束どおり、半三郎のもとを訪ねた。彼は、厩の裏の、昨夜と同じ場所に、座り込んでいた。一睡もしていないのだろう。落ちくぼんだ目で、明日香を見上げる。その顔には、もう、覚悟だけが、あった。
突き出される。斬られる。あるいは、城主の前に引き据えられ、裏切り者として、辱めを受ける。半三郎は、そのすべてを、受け入れるつもりで、じっと、明日香の沙汰を、待っていた。
明日香は、その前に、静かに膝をついた。
そのかわりに、刀でも、縄でもなく――彼の、冷たく強張った手を、両手で、そっと包み込んだ。
すぎの、皺だらけの手を握ったときと。志乃と、心を通わせたときと。同じ、看護師の手つきで。誰かの痛みの傍らに寄り添うとき、明日香が、いつもそうしてきたように。
その手は、氷のように冷たかった。一晩、雨と恐怖に晒され続けた手だ。明日香は、その冷たさを、自分の手のひらの温もりで、少しずつ、溶かしていく。言葉より先に、まず、この体温を、伝えたかった。あなたは、一人ではない、と。
半三郎の体が、びくりと、震えた。
「な……桔梗、どの?」
「あなたは、悪人じゃない」
明日香は、まっすぐに、少年の目を見て、言った。
「城を売りたかったわけじゃない。ただ、お母さまを、守りたかっただけでしょう。たった一人の、大切な人を。それの、どこが、罪なの」
半三郎の目が、大きく、見開かれた。
「でも……おれは、殿を、裏切った。城の、みんなを、危うくした。おれは、赦されるようなことは」
「あなたを追い詰めたのは、あなたじゃない。母さんの命を盾に取った、卑怯な大人よ。あなたは、その大人の悪の、犠牲になっただけ。守りたいものを守ろうとした、その気持ちは、間違ってない。誰にも、責められない」
包んだ手に、力を込める。
「もう、一人で、抱えなくていい。あなたの苦しみは、わたしが、知っている。それでいいの」
母を守ろうとした心は、罪ではない。それは、明日香が、心の底から、そう信じて口にした言葉だった。歴史は、半三郎を、裏切り者として裁くかもしれない。いや、記録にすら、残さないだろう。名もなき小姓の、小さな罪も、その哀しい事情も。だが、明日香だけは、知っている。この子が、何を守ろうとして、どれほど苦しんだかを。
その瞬間だった。
半三郎の、張り詰めていたものが、音もなく、崩れた。見開かれた目から、大粒の涙が、あふれ出す。少年は、握られた手にすがりつくようにして、声を上げて、泣いた。ずっと、誰にも言えず、誰にも赦されず、たった一人で抱えてきた罪と恐怖が、その涙とともに、溶けていく。
赦された。
裏切り者が、その弱さごと、まるごと、受け止められた。裁かれるのではなく。断罪されるのではなく。母を思う心を、尊いものとして、肯定された。半三郎の魂が、長い地獄から、ようやく、解き放たれた瞬間だった。
泣きじゃくる少年の背を、明日香は、そっと、さすった。幼子をあやすように。よしよし、と、声にならない声で。この子は、まだ、十六だ。本来なら、母に甘え、友と笑い、未来を夢見ているはずの年頃だ。それを、この乱世が、大人の醜い欲が、こんなにも、追い詰めた。せめて、この涙が涸れるまでは、傍にいてやろうと、明日香は思った。
しばらくして、泣きやんだ半三郎が、顔を上げた。
その目には、昨夜までの、追い詰められた獣の色は、もう、なかった。代わりに、静かで、澄んだ、覚悟の光が、宿っていた。
「桔梗どの。おれに、償わせてください」
彼は、地に、額をつけた。
「聞きました。志乃さまと、姫さまを、逃がそうとしていると。おれも、加えてください。この命に、代えても。城の内のことなら、小姓のおれが、いちばん詳しい。見張りの替わる刻、殿の警固の目が離れる隙。きっと、役に立てます」
「半三郎さん……」
「それに」半三郎の声が、震えた。「母は、おれが、必ず、自分の手で助け出します。もう、弥兵衛の言いなりには、ならない。あの男に、母もおれも、いいように使われて、たまるものか」
その声には、昨夜までの怯えは、微塵もなかった。赦されたことで、この少年は、恐怖から、解き放たれた。もう、脅しは効かない。守るもののために震えていた手が、今度は、守るもののために、動こうとしている。同じ「母のため」でも、その意味は、まるで、変わっていた。
裏切りに、使われていた駒が。母の命に、縛られていた少年が。今、自らの意志で、救う側へと、立ち上がった。
かつて明日香は、未来を変えようとして、ことごとく失敗した。だが、人の心なら、変えられる。一人の少年を、絶望から、希望へ。それは、歴史の大局には、何の影響も及ぼさない、ちっぽけな変化だ。けれど、半三郎という一人にとっては、生き方のすべてが変わる、大きな転換だった。救うとは、きっと、こういうことなのだ。
明日香は、深く、頷いた。この赦しは、間違っていなかった。裁いていれば、得られたのは、口を封じた安全だけ。だが、赦したことで、明日香は、心強い味方と、一人の少年の未来を、手にした。
「ありがとう、半三郎さん。あなたの力を、貸して」
二人は、雨の中で、固く、頷き合った。
明日香は、半三郎を、城主には、突き出さなかった。
それは、この城に、静かな波紋を広げていく。弥兵衛は、知らぬ間に、内通の手足を、失ったのだ。母の命で縛りつけていた少年が、その支配を、脱した。用済みと切り捨てるつもりだった駒が、いつのまにか、敵方に回っていた。その綻びが、いずれ、あの男自身を、追い詰めていく。
因果応報とは、こういうものかもしれない、と明日香は思った。自分は、弥兵衛を、指一本、裁いてはいない。ただ、あの男が虐げた少年を、赦しただけだ。それだけのことが、めぐりめぐって、あの男の足もとを、静かに崩しはじめる。悪は、他人にではなく、自分の悪しき企みそのものによって、少しずつ、滅んでいく。剣を抜くことも、声を荒げることも、なく。
だが、それを喜んでいる暇は、なかった。
半三郎という力を得て、逃がしの態勢は、ようやく整った。しかし、時を同じくして、弥兵衛の内通は、最終段階に入りつつあった。寄せ手の攻城は、もう、目前。梅雨の晴れ間が、いつ訪れてもおかしくない。
刻限は、残酷なほどの速さで、狭まっていく。救える者を救う、その最後の夜が、すぐそこまで、迫っていた。




