第21話 おれは、城を売る気なんてなかった。ただ、母を
その夜、明日香は、雨の中を、半三郎の後を追った。
決行の前に、どうしても、この少年と、話さねばならない。半三郎が、厩の裏の、雨をしのげる庇の下に、一人でうずくまっているのを見つけると、明日香は、意を決して、歩み寄った。
雨が、庇を叩いている。半三郎の膝は泥で汚れ、袴は湿っていた。ずいぶん長く、ここに、こうしていたのだろう。逃げ場を失った少年が、雨宿りのふりをして、ただ一人、震えている。その姿は、いつか見た、追い詰められた患者の背中に、重なった。
「半三郎さん」
名を呼ばれて、半三郎が、びくりと肩を震わせた。振り向いた顔は、青ざめ、目が、血走っている。
「な、なんだ、桔梗どの。おれに、何の用だ」
その声が、上ずっていた。追い詰められた獣のような、警戒の色。明日香は、脅かさぬよう、静かに、その前に膝を折った。すぎや、志乃のときと、同じだ。まず、相手と同じ高さに、身を置く。
「知っています。あなたが、苦しんでいることを。お母さまのことも」
半三郎の顔が、凍りついた。かっと目を見開き、それから、くしゃりと歪む。
「なんで、なんで、それを」
「あなたを、責めに来たんじゃないの。ただ、一人で抱えるには、重すぎるでしょう。話して。楽になっていいの」
その一言が、少年の中の、張り詰めていた何かを、断ち切った。
半三郎は、膝から、崩れ落ちた。両手で顔を覆い、雨音に混じって、嗚咽が、漏れはじめる。堰を切ったように、言葉が、あふれ出した。
「おれは……城を売る気なんて、なかった。誓って、なかったんだ。ただ、母を」
しゃくり上げながら、半三郎は、すべてを語った。
病がちの母を、城下で見張られていること。ある日、弥兵衛に呼び出され、城の内情を流さねば、母の命はない、と脅されたこと。手薄な門、兵糧の在りか、水の手の位置。知っていることを、一つ、また一つと、漏らさざるを得なかったこと。そのたびに、主君を裏切る自分を、殺したいほど、憎んだこと。
母は、何も知らない。息子が奉公先で立派に勤めていると、素朴に信じて、喜んでいるという。その母のために、半三郎は、日に日に、魂を削っていた。眠れば悪夢にうなされ、飯も喉を通らない。誰にも言えず、たった一人で、罪と恐怖を、抱え込んできた。まだ、十六の少年が。
「殿は、おれに、目をかけてくださった。名を、覚えていてくださった。その殿を、おれは……この手で、売ったんだ。母のために。でも、母を見殺しになんて、できない。おれは、どうすればいい。桔梗どの、おれはもう、どうしたら、いいんだ」
血を吐くような、問いだった。
明日香は、その慟哭を、黙って受け止めた。胸が、締めつけられる。この少年は、悪人などでは、断じてなかった。母を思う一心で、逃げ場のない地獄へ、追い込まれただけの、被害者だ。忠義に厚い少年ほど、主君を裏切る痛みは、深かっただろう。
だが、と、明日香の中で、冷たい声も、囁いた。
事実として、半三郎が漏らした情報が、城を危うくした。あの、先回りされた警固の強化。塞がれていった逃げ道。その一因は、この少年にある。彼を、城主に突き出せば。内通の実行犯として差し出せば、明日香たちの潔白は保たれ、疑いの目も、逸れるかもしれない。それが、いちばん、安全な道だった。
看護師の頃にも、似た局面は、あった。限られた手を、誰に割くか。助かる見込みの薄い者を、時に、諦めねばならない。それは、冷徹だが、必要な判断だった。半三郎を切り捨てるのも、同じ理屈で、正当化できる。危険な火種を、遠ざける。志乃と千代の逃走を、確実にする。頭では、そうすべきだと、分かっていた。
裁く。その誘惑が、確かに、胸をよぎった。
だが――目の前で泣きじゃくる、この十六の少年の、震える背中を見ていると、その考えは、みるみる、薄れていった。すぎを、志乃を、千代を救いたいと願った、あの気持ち。名もなき者を、見捨てたくないという、あの願い。それは、この、罪を犯した少年にも、向けられるべきではないのか。
それに、半三郎を突き出したところで、真の黒幕である弥兵衛は、のうのうと生き延びる。この少年一人に罪を着せて、自分たちだけ助かる。それは、正義でも、なんでもない。ただの、弱い者いじめだ。弥兵衛が半三郎にしたことと、何ひとつ、変わらない。
裁くのは、たやすい。だが、それでは、弥兵衛と、同じだ。弱い者を切り捨てて、生き延びる。そんな救済に、いったい何の意味がある。
胸の中で、二つの声が、せめぎ合っていた。安全を取れと囁く、冷たい理性。見捨てるなと訴える、温かい何か。だが、この城へ来てから、明日香が学んだことは、一つだった。安全な道が、正しい道とは、限らない。むしろ、いちばん苦しくて、報われなさそうな道の先にこそ、本当の救いが、あった。すぎのときも、そうだった。
雨が、いっそう、強くなった。庇を打つ音が、二人を、闇ごと包んでいる。半三郎は、沙汰を待つように、うなだれていた。その細い首が、今にも刎ねられそうで、明日香は、目を逸らせなかった。この子を、死なせない。たとえ、どんな危険を背負うことに、なっても。
明日香は、震える少年の肩に、そっと手を置いた。
「半三郎さん。今夜は、もう休んで。あなたをどうするか、明日まで、わたしに、考えさせて。……大丈夫。悪いようには、しないから」
半三郎は、涙に濡れた顔を上げ、明日香を見た。信じられない、という顔だった。突き出されて当然と、覚悟していたのだろう。その目に、かすかな、けれど確かな、すがるような光が、灯った。
「おれは、どうなっても、いい。ただ、母だけは。母だけは、どうか」
「分かってる。ちゃんと、考えるから」
明日香は、雨の中を、奥へ戻った。
裁くのか、赦すのか。一晩、考える、と言った。だが本当は、心の底で、答えは、もう、決まりかけていた。赦す。この少年を、赦す。その弱さごと、受け止める。ただ、一晩置いたのは、半三郎自身のためだった。突き出されて当然と覚悟した夜を越え、それでも生かされると知ったとき、人は、変われる。その一夜を、彼に、贈りたかった。
奥へ戻る廊下で、明日香は、ふと足を止めた。赦すことは、危険を一つ、抱え込むことでもある。だが、それでいい。救うと決めたなら、半端はしない。あの震えていた手を、明日は、しっかりと握ってやろう。すぎの手を握ったように。
雨は、朝まで、降り続いた。




