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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第20話 決行の段取りは、整った。だが、半三郎を、見捨てられなかった

六月に入り、梅雨が、本格的に城を包んだ。


来る日も来る日も、灰色の雨が、山と城を、煙らせている。軒を叩く雨音が、絶え間なく続いた。寄せ手は、城下の外れに陣を張り、じりじりと、包囲の輪を狭めつつある。晴れ間を待って、総攻めが始まるのは、もう、時間の問題だった。


裏を返せば――決行するなら、この梅雨の闇に、まぎれるほかない。


その夜も、明日香は、蔵で佐吉と、額を突き合わせていた。灯を、油紙で覆い、光が漏れぬようにする。壁には、佐吉が炭で描いた、粗末な絵図が、貼られていた。奥から、裏の小門、そして炭焼き道を経て、遠縁の寺へ至る、逃走の道筋だ。


「雨は、味方だ」佐吉が、低い声で言った。「足音も、話し声も、雨が消してくれる。物見の松明も、この雨じゃ、遠くまでは届かねえ。……けどよ」


「けど?」


「同じ雨が、あの山道を、ぬかるみに変える。ただでさえ険しい道が、滑って、危なくなる。姫さまを背負って越えるのは、命がけだ」


明日香は、絵図を、じっと見つめた。梅雨の闇は、味方であり、同時に、最大の障害でもある。この諸刃の刃を、どう使いこなすか。決行の刻、道順、荷、そして、志乃と千代を、どう奥から連れ出すか。一つ一つ、綿密に、詰めていく。


決行は、寄せ手の総攻めが始まる、その前夜がよい。その一点で、二人の考えは一致した。攻城が始まってしまえば、城の内も外も、混乱で身動きが取れなくなる。かといって、早すぎれば、志乃と千代がいなくなったことが露見し、大騒ぎになる。落城の、ぎりぎり前夜。その一点を、寸分違わず、見極めねばならない。いつ晴れ間が来て、いつ総攻めが始まるのか。それを読む頼りは、明日香の、あやふやな未来の記憶と、日々の空模様だけだった。


「連れ出す、その刻限がいちばんの難所だな」佐吉が唸った。「奥の見張りを、どうやって、掻い潜る」


「そこは――」


明日香が言いかけたとき、蔵の戸が、そっと、開いた。


二人が、身を強張らせる。だが、入ってきたのは、白髪を頭巾で覆った、於松だった。


「わたしだ。案ずるな」


老女は、慣れた様子で、二人の傍らに腰を下ろした。もはや、この計画の、中心の一人だった。


「奥の見張りは、わたしが引き受ける」於松が、断言した。「あの刻限、あの局は、わたしが人払いをする口実を、いくつも持っておる。長年、奥を仕切ってきたのだ。どこに、どんな綻びがあるか、女どもの誰が、いつ眠りこけるか、すべて頭に入っておる」


明日香と佐吉は、顔を見合わせた。


於松の一言で、最大の難所だった「奥からの連れ出し」に、道が開けた。奥の目を欺く於松。城の内と外を繋ぐ佐吉。逃走路を先導し、母子に付き添う明日香。三人の役割が、きっちりと、噛み合った。ばらばらだった歯車が、一つの機構として、動きはじめる。


不思議な光景だった、と明日香は思う。ほんの数月前まで、この三人は、互いに、まるで縁のない者どうしだった。奥を仕切る、厳格な老女。台所の、軽口な下人。得体の知れぬ、ぼんやりした下女。それが今、一つの命を救うという、ただその一点で、固く結ばれている。身分も、立場も、年も、まるで違う。けれど、名もなき者を見捨てられぬという、その一点だけは、三人とも、同じだった。


「……できるかもしれない」


明日香は、思わず、呟いた。無謀に思えた逃がしが、初めて、成し遂げられる形を、帯びてきた。武力も権力もない、下女と、下人と、老女。城でいちばん低い者たちが、寄せ集めた知恵と、覚悟だけで、一つの命を、救おうとしている。


だが、その手応えに、明日香は、素直に喜べなかった。


一つ、大きな棘が、胸に、刺さったままだった。


半三郎。


処断の危機に瀕した、あの少年のことが、頭から、離れなかった。寄せ手の到来で、いっとき噂は静まった。だが、いずれ必ず、蒸し返される。弥兵衛は、自らの罪を隠すために、半三郎を、生贄にするだろう。このまま何もしなければ、あの母思いの少年は、裏切り者の汚名を着せられ、首を刎ねられる。


見捨てれば、楽だった。


半三郎は、計画とは、関わりがない。彼を見殺しにしても、志乃と千代の逃がしには、何の支障もない。むしろ、危険な火種を、一つ、遠ざけられる。冷徹に考えれば、そうすべきだった。すべての手を取ることはできない。以前、自分にそう言い聞かせたはずだ。


だが――できなかった。


半三郎もまた、この時代の非情さに、押し潰されようとしている、名もなき一人だ。母を人質に取られ、心を殺して、たった一人で、地獄を歩いている。あの震える手を、見て見ぬふりをして、志乃と千代だけを救う。そんな救済に、いったい何の意味があるだろう。すぎのときに誓った、あの気持ちに、嘘をつくことになる。


救う相手を選ぶ、と決めたとき、選ばなかった者を見捨てる痛みも、引き受けると誓った。それは、確かだ。だが、それは、どうしても手が届かない相手を、諦めるということであって、手が届くのに、危ういからと切り捨てることとは、違う。半三郎は、手を伸ばせば、届く場所にいる。届くはずの手を、引っ込めることは、明日香には、できなかった。


それに、と、明日香は、もう一つの理由に、思い至った。


半三郎は、弥兵衛の内通の、詳細を握っている。あの少年を、このまま追い詰められたままにしておくのは、危うい。絶望した半三郎が、破れかぶれになれば、何を口走るか、分からない。逃がしの計画が、彼を通じて、露見する恐れも、ないとは言えなかった。


救うにせよ、備えるにせよ。


半三郎と、一度、話さねばならない。


明日香は、油紙に覆われた、頼りない灯を見つめて、覚悟を決めた。あの追い詰められた少年の、固く閉ざした心に、触れること。それは、危険な賭けだった。だが、避けては、通れない。


半三郎の、あの怯えた目を思い出す。すぎや、志乃や、千代に触れたときと、同じだ。まず、相手の痛みの傍らに、そっと座ること。信じてもらえるまで、根気よく、待つこと。看護師として、幾度も繰り返してきた、その手順を、明日香は、もう一度、思い起こした。相手は、心を閉ざした、追い詰められた少年。容易では、ないだろう。それでも、やるしかない。


雨は、まだ、降りやまない。決行の刻は、刻一刻と、近づいていた。

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