第19話 裏切りが露見した日、寄せ手の旗が、城を囲みはじめた
その日は、朝から、城の空気が、ざわついていた。
明日香が異変に気づいたのは、井戸端でのことだ。女中たちが、額を寄せ合い、ひそひそと囁いている。その声の端に、「半三郎」という名が、混じっていた。
胸騒ぎがして、明日香は、聞き耳を立てた。
どうやら、半三郎が敵に通じているらしい、という噂が、城内に流れはじめていた。誰かが、彼の不審な動きを見咎めたのか。あるいは、弥兵衛が、自らの罪を隠すために、すべてを半三郎一人に押しつけようと、種を蒔いたのか。おそらくは、後者だろう。沈む船から、真っ先に逃げる男だ。露見しかけたと見るや、手足に使った少年を、迷わず切り捨てにかかる。
血の気が、引いた。
このままでは、半三郎が、処断される。内通の罪で。母を人質に取られ、心を殺して従っただけの、あの少年が。真の黒幕である弥兵衛は、涼しい顔で生き延び、いちばんの被害者が、裏切り者として、首を刎ねられる。そんな、理不尽が。
助けなければ。だが、どうやって。
明日香が、下手に半三郎を庇えば、たちまち、自分も同類と疑われる。逃がしの計画ごと、露見しかねない。焦りばかりが、胸の中で、空回りした。半三郎を救う猶予は、みるみる、消えていく。
考えれば考えるほど、弥兵衛の狡猾さに、身震いがした。自らの内通が露見しかけると見るや、その罪をそっくり、半三郎になすりつける。少年が裏切り者として処断されれば、真相を知る口は、永遠に閉ざされる。弥兵衛は、いよいよ安泰だ。すべてが、あの男の描いた筋書きのとおりに、運んでいく。悪が栄え、善良な者が、罪をかぶって消される。この乱世の、いちばん醜い理が、目の前で、まかり通ろうとしていた。
そのときだった。
城じゅうに、けたたましく、半鐘が、鳴り響いた。
物見櫓からの、けたたましい連打。誰もが、動きを止め、櫓を仰いだ。次いで、伝令の、切迫した叫びが、城内を駆け巡る。
「寄せ手! 豊臣方の先手が、城下の、すぐそこまで!」
明日香は、井戸の縁を、掴んだ。
来た。ついに。頭の中の歴史の記憶ではなく、現実の刻限として。物見櫓の上から見えるという、その方角へ、明日香も目を凝らした。遠い尾根の上に、幾筋もの、砂塵が上がっている。無数の旗指物が、初夏の風に、翻っていた。
あれが、時代の非情さ。抗いようのない、大きな流れ。二十万の大軍の、その、ほんの一部の先鋒。それだけで、この小さな城を、呑み込むには、十分すぎた。
歴史の書物で読んだ、たった一行の出来事。「北条方の支城は、各地で落ちた」。その一行の中に、この城の、この人々の、すべての生と死が、押し込められている。今、明日香は、その一行が現実になる、まさにその只中に、立っていた。砂塵を上げて近づく軍勢は、無数の人間の営みを、無造作に踏み潰していく、時の巨大な足音のようだった。抗う術は、ない。ただ、その足が下りてくるまでの、わずかな猶予が、残されているだけだ。
落城まで、あと、どれほど。梅雨が明ければ。いや、それより早いかもしれない。数えられていた残りの日々が、いよいよ、指折り数えられる段階に、入った。
城内は、蜂の巣をつついたような、騒ぎになった。
兵たちが、持ち場へ走る。門が固く閉ざされ、櫓に弓が運び込まれる。女たちは、幼子を抱え、右往左往した。半三郎の噂も、寄せ手の到来という、より大きな恐怖に、いったんは、かき消された。
だが、明日香には、分かっていた。この混乱が少し落ち着けば、また、半三郎の話は、蒸し返される。逃げ場を失った少年に、いつ、処断の沙汰が下っても、おかしくない。寄せ手の接近と、半三郎の危機。二つの刻限が、同時に、明日香の首を、絞めつけていた。
その夜、本丸で、軍議が開かれた。
明日香は、給仕の末席に加えられ、遠くから、その様子を、うかがうことができた。張り詰めた広間の、上座に、氏久がいた。居並ぶ家臣たちが、口々に、意見を述べる。後詰めは望めぬ。降伏か、籠城か。その中に、弥兵衛の、いやに勇ましい主戦論も、混じっていた。内通を隠すための、白々しい忠義面で。
やがて、氏久が、静かに、口を開いた。
「是非もない」
短い、けれど、揺るぎのない声だった。
「後詰めなき籠城が、どういう結末を迎えるかは、皆、分かっておろう。それでも、わしは、逃げぬ。この城を預かった者として、最後まで、ここで戦う。北条の名に、恥じぬように」
広間が、静まりかえった。誰も、その覚悟に、異を唱えられなかった。
末席で、明日香は、うつむいた。
やはり、この人は、逃げない。逃げられない。城主であるということが、この城と、運命を共にするということが、氏久という人の、生き方そのものなのだ。だからこそ、救えない。城を捨てて逃げた氏久は、もう、氏久ではない。彼の死は、この城の落城と、分かちがたく、結ばれている。
何度、その事実を噛みしめても、慣れることは、なかった。志乃と千代は、記録に残らぬがゆえに、救える。だが、氏久は、記録に残るがゆえに、救えない。同じ城にいて、同じように救いたいのに、身分と歴史が引いた、非情な一本の線が、この人だけを、向こう側へ、隔てている。救える者と、救えぬ者。その線の残酷さを、これほど恨めしく思ったことは、なかった。
胸が、締めつけられた。名を覚えてくれた、あの人。井戸端で、静かに滅びを語った、あの人。その最期が、もう、すぐそこまで、来ている。
軍議が果て、家臣たちが下がっていく。その、ざわめきの中で、ふと、氏久の視線が、末席の明日香を、捉えた。
「……桔梗か」
低く、呼ばれた。明日香は、はっと、頭を垂れた。
「このような騒ぎだ。奥の女子供も、心細かろう。……よう、支えてやってくれ」
それだけ言うと、氏久は、立ち上がり、広間を去っていった。滅びを目前にして、なお、家中のいちばん弱い者を案じる。その優しさが、かえって、明日香の胸を、深く抉った。
戦を前にして、この人の頭は、城のこと、家臣のことで、いっぱいのはずだ。それでも、奥の女子供の心細さにまで、思いを馳せる。そういう人だからこそ、家臣も領民も、この人と運命を共にすることを、選ぶのだろう。そして、そういう人だからこそ、救えないという事実が、いっそう、明日香の胸に、こたえた。
この人を、看取ることさえ、できるだろうか。
寄せ手は、目前に迫った。半三郎は、処断の危機にある。志乃と千代を逃がす刻限も、もう、待ったなしだ。残された時間は、あまりに、少ない。
決着の刻が、刻一刻と、近づいていた。




