第18話 ねえ桔梗、また春に、桜を見られる?
弥兵衛の内通を知ってから、明日香は、眠りが浅くなっていた。
敵は、外の大軍だけではない。城の内にも、笑いながら味方を売る者がいる。逃がしの計画は、その男の目を、いっそう厳しく掻い潜らねばならなくなった。考えることは、山ほどある。気を張り詰めて、明日香の顔は、日ごと、こわばっていった。
そんなある日の午後だった。
洗い場で、明日香が思い詰めた顔をしていると、ふいに、袖を、くいっと引かれた。
見下ろすと、千代だった。
「桔梗、あそぼ」
その、まんまるな目に見上げられて、明日香の胸の、張り詰めていた糸が、ふっと、ゆるんだ。
「……いいの? 志乃さまは」
「かかさま、いいって。桔梗と、あそんでいいって」
志乃が、少し離れた縁側から、こちらを見ていた。目が合うと、かすかに頷く。この母子と過ごすことを、志乃は、もう咎めなかった。あの夜以来、二人の間には、言葉にせずとも、通い合うものが、あった。
明日香は、手を拭いて、千代の相手をした。
小石を並べて、家をつくる。野に咲いた花を摘んで、髪に挿してやる。他愛のない遊びだ。けれど、千代は、けらけらと、心の底から笑った。その笑い声は、澄んでいて、滅びの近づくこの城の空気を、つかのま、まるごと洗い流してくれるようだった。
石を積んでは崩し、崩しては積む。千代は、同じ遊びを、飽きもせず繰り返す。その一つ一つに、明日香は、丁寧に付き合った。摘んだ蓮華の花を、指で編んで小さな輪をつくってやると、千代は目を輝かせて、それを頭に載せた。「ひめさま、みたい?」と、得意げに胸を張る。その仕草の愛らしさに、思わず、笑いがこぼれた。土と草の匂い、幼子の、やわらかな髪。ありふれた午後の、かけがえのなさ。
子どもというのは、不思議なものだった。どれほど大人が深刻な顔をしていても、その屈託のなさで、場の空気ごと、塗り替えてしまう。千代の笑い声を聞いていると、滅びも、内通も、遠い悪い夢のように思えてくる。ほんの、つかのまだけれど。
明日香も、いつのまにか、笑っていた。
久しぶりだった。この城へ来て、気を張り、焦り、打ちのめされ、また立ち上がる。その繰り返しの中で、こんなふうに、何の計算もなく笑ったのは。千代の小さな手が、明日香に、忘れていたものを、思い出させてくれた。守ろうとしているのは、こういう時間なのだ、と。
やがて、志乃も、縁側から、庭へ降りてきた。
三人で、庭の隅に座り込む。梅雨の晴れ間の、やわらかな日差しが、差していた。千代が、摘んだ花を、母と明日香の膝に、順に置いていく。志乃の口もとに、めったに見られない、穏やかな笑みが、浮かんでいた。
これが、守りたいものの、正体だった。
滅びゆく城の、束の間の光。抗いようのない大きな流れの、その隅っこで、それでも人が笑い、慈しみ合う、ささやかな時間。歴史には、決して残らない。けれど、この一瞬こそが、明日香が、命を賭けて守ろうとしているものの、すべてだった。
ふと、千代が、空を見上げて言った。
「ねえ、桔梗」
「なあに、千代さま」
「またはるに、さくら、みられる?」
明日香の、心臓が、とん、と鳴った。
「去年な、とと様と、かか様と、さくら、みたの。ひらひら、いっぱい。きれいだったの。……またね、みんなで、みられる?」
無邪気な、なんの他意もない問いだった。だが、その一言は、明日香の胸の、いちばん深いところを、刺し貫いた。
桜。ひらひらと舞い散る、あの花。千代の小さな胸には、去年の春の情景が、宝物のように、大切にしまわれている。父と母と手をつないで見上げた、満開の桜。それを、また、みんなで見たい。ただ、それだけの、ささやかな願い。世界でいちばん叶えてやりたい願いが、世界でいちばん、叶わない願いだった。
来年の春。この城は、もう、ない。父である氏久は、この夏を越えられない。ここで、みんなで桜を見ることは、二度と、叶わない。それを、この子は、知らない。
三人で、桜を見た。父と、母と。千代にとって、それは、当たり前の、幸せな記憶だ。来年も、その次の年も、当たり前に続くはずの。だが、その当たり前が、もう、跡形もなく崩れようとしていることを、この幼子だけが、知らずにいる。知らないでいてくれることが、せめてもの、救いだった。
けれど――だからこそ。
この子に、次の春を。この子が、生き延びて、どこか遠い、安全な土地で、また桜を見上げる。その未来を、なんとしても、用意する。それが、明日香の救済の、たった一つの、譲れない目標に、なった。抽象的だった「救う」という誓いが、今、一枚の、はらはらと散る桜の情景に、はっきりと、結晶した。
明日香は、千代の頬に、そっと手を添えた。
「……見られるよ。きっと、見られる。桔梗が、約束する」
声が、震えないよう、精いっぱいだった。それは、この子への約束であると同時に、自分自身への、誓いだった。何があっても、この約束だけは、守り抜く。
千代が、嬉しそうに、笑った。
その様子を、志乃が、じっと見ていた。明日香と、目が合う。志乃は、何も言わなかった。ただ、その瞳が、潤んでいた。母もまた、悟っているのだ。この城に、次の春はないことを。だからこそ、明日香の「約束する」という一言に、託せるだけの望みを、託そうとしている。二人の間で、声にならない約束が、固く、交わされた。
守り抜く。この子と、この母を。たとえ、城のすべてが灰になろうとも、この二人だけは、必ず、次の春へ、送り届ける。明日香は、膝の上の蓮華の輪を、そっと握りしめた。しおれかけた小さな花の輪が、守るべき約束の、たしかな証であるかに思えた。
その夜、明日香は、久しぶりに、まっすぐ前を向いていた。
内通の壁は、高い。刻限は、迫っている。それでも、怯んでいる暇はない。怯えるより、できることを、一つずつ積む。千代の、あの笑顔を、次の春まで運ぶために。
眠る前に、明日香は、あの曇った手鏡を、そっと取り出した。鏡の中の、桔梗の顔に、語りかける。あなたは、里の家族に、二度と会えなかった。だから、せめて、この母子だけは。この子から、母を、未来を、奪わせはしない。鏡の娘が、静かに頷いた気がした。
だが――守ると誓った、まさにその矢先だった。
翌日、城の空気が、一変した。半三郎の裏切りの一端が、どこからか、露見しかけている。そして、時を同じくして、物見櫓が、けたたましく、半鐘を打ち鳴らした。豊臣方の、先手が。ついに、この城の、間近に。




