第17話 滅ぶ船に忠義立てして沈むのが、賢いのか
その夜のことは、まったくの偶然だった。
半三郎の背後を探ろうと、明日香は、彼が夜半に動く先を、そっと追っていた。母を人質に取られた少年が、いったい誰の指図で動いているのか。それを確かめねば、半三郎を救う道も、見つからない。
半三郎は、人目を忍んで、城の裏手の、古い納屋へ向かった。明日香は、少し離れて、その後をつける。梅雨の走りの、じっとりと湿った夜だった。虫の声が、やけに大きく響いている。
納屋の壁に、身を寄せた。板の隙間から、中の灯りが、細く漏れている。
そっと、覗いた。
中には、二人の男がいた。一人は、あの重臣、弥兵衛。もう一人は、見慣れぬ、旅装の武士だった。物腰から、ただの浪人ではない。豊臣方の、使者。明日香は、直感した。半三郎は、その入口で、青ざめた顔で、見張りに立たされている。
やはり、そうだった。半三郎は、この密会の見張りを、させられている。母の命を盾に取られ、こんな役目まで。少年の顔には、血の気がなく、ただ、逃げ出したいのを必死にこらえているような、悲痛な色が、浮かんでいた。
交わされる言葉が、切れぎれに、耳に届いた。
「……たしかに、承った。城の手薄な箇所、兵糧の蓄え、水の手の位置。すべて、書き記してござる」
弥兵衛の、低い声だった。武士へ、一通の書状を、恭しく差し出している。
「関白さまへ、よしなに。この弥兵衛、開城の折には、内より門を開く手引きも、いたす所存。その代わり――」
「分かっておる」武士が、遮った。「そのほうと、一族郎党の助命。しかと、約束いたす」
明日香の心の臓が、凍りついた。
内通だ。疑いは、確信に変わった。弥兵衛は、この城を、敵に売っている。城の弱点を書き記し、開城の際には、内から門を開くとまで。自分と一族の命惜しさに、城主も、城兵も、女子供も、すべてを、豊臣方へ差し出そうとしている。半三郎は、その使い走りに、母の命と引き換えに、使われていたのだ。
書状の受け渡しが済むと、武士は、闇へ消えた。
納屋には、弥兵衛と、半三郎だけが残った。半三郎の震える肩に、弥兵衛が、ねっとりとした声をかける。
「よいか、半三郎。このことが漏れれば、そのほうの母は、その日のうちに、なます斬りよ。せいぜい、口を噤んでおれ。……なに、案ずるな。城が落ちれば、そのほうも母も、わしが助けてやる。忠義など、糞の役にも立たぬ。生き残った者だけが、正しいのだ」
半三郎は、答えなかった。ただ、拳を握りしめ、うつむいている。その頬を、涙が、伝っていた。
明日香は、壁の陰で、こみ上げる怒りに、震えた。
なんという、男だろう。滅びゆく城を見限り、保身のために売り渡す。それだけでも許しがたいのに、幼い少年の母を盾に取り、その良心ごと、踏みにじっている。しかも、この男には、悪事を働いているという自覚が、まるでない。
「滅ぶ船に、忠義立てして沈むのが、賢いか」
去りぎわ、弥兵衛が、半三郎に言い聞かせるように、呟いた。
「わしは、違う。船が沈むと分かれば、いち早く、次の岸へ渡る。それが、道理というものよ。この城の者どもは、ただ、愚かなだけだ。沈む船と、心中してくれるわ。……これも、すべて、家のためよ」
家のため。その一言で、この男は、あらゆる裏切りを、正当化している。
恐ろしいのは、弥兵衛が、心の底から、自分を正しいと信じていることだった。悪意に酔っているのではない。彼にとって、これは、賢く、正しい、当然の選択なのだ。その揺るぎなさが、かえって、底知れず不気味だった。
時代の非情さが、外から、城を押し潰そうとしている。その同じ非情さが、弥兵衛のような男の中にも、巣食っていた。強い者が勝ち、弱い者は滅びる。生き残るためなら、何をしてもいい。乱世の理を、この男は、誰よりも忠実に、生きているだけなのかもしれない。だからこそ、ただの悪党として憎みきることさえ、難しかった。
明日香は、音を立てぬよう、その場を離れた。
胸の中で、怒りが、渦を巻いている。この男を、暴いてやりたい。城主に、家中に、その正体を、突きつけてやりたい。だが――足を止めて、明日香は、唇を噛んだ。
できない。
考えてみれば、すぐに分かる。下女が、家老格の重臣を「内通者だ」と訴えて、いったい誰が、信じるだろう。証拠は、この目で見た、ただそれだけ。書状は、もう敵の手に渡った。「下女の世迷い言」と、一蹴されて終わりだ。かつて、偽の警報で信を失った、あのときと、同じ。いや、それより、ずっと悪い。重臣を陥れようとした咎で、今度こそ、明日香の首が飛ぶ。
歴史を変えようとする手は、必ず弾き返される。あの、痛い教訓が、また、重くのしかかってきた。弥兵衛という悪を、正面から裁くことは、この無力な身では、できない。
ならば、どうする。
明日香は、暗い廊下を歩きながら、必死に、頭を巡らせた。裁けないなら、せめて、この男の毒が、志乃と千代に、半三郎に、及ばぬようにする。守るべきものを、守り抜く。悪を罰することより、命を救うことに、力を注ぐ。それが、自分にできる、ただ一つの道だった。
すぎを看取ったときも、そうだった。病を治すことは、できなかった。だが、その最期を、安らかにすることは、できた。今も、同じだ。弥兵衛という病そのものは、この手では絶てない。だが、その毒牙から、守りたい者を引き離すことは、できるはずだった。裁く者にはなれずとも、救う者には、なれる。
だが、敵の正体を知ったことで、逃がしの難しさは、いっそう増した。城には、こちらの動きを、逐一、敵に売り渡す者がいる。しかも、その男は、開城の際に、内から門を開くという。落城は、想像より、ずっと惨いものになるかもしれない。
重い足取りで、奥へ戻ると、廊下の先から、小さな影が、駆けてきた。
千代だった。眠れなかったのか、寝間着のまま、とことこと歩いてくる。明日香を見つけると、その顔が、ぱっと、花のように綻んだ。屈託のない、無邪気な笑顔。滅びも、内通も、大人たちの醜い企みも、何ひとつ知らない、まっさらな笑顔だった。
その笑顔が、渦巻いていた明日香の怒りを、ふっと、静めた。
そうだ。守るのは、これだ。この、なんの罪もない笑顔だ。裁けなくても、いい。この子を、この笑顔を、次の季節まで、守り抜くこと。それだけを、考えればいい。
千代が、明日香の袖を、小さな手で、きゅっと握った。
その手の、あたたかさ。頼りない、けれど確かな重み。明日香は、その場にしゃがんで、小さな体を、そっと抱き寄せた。この温もりだけは、絶対に、冷たくさせない。渦巻いていた怒りは、いつのまにか、静かで、固い決意に、変わっていた。




