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この家が滅ぶ日を、わたしは知っている。だから歴史は変えず、ただ一人を救うと決めた  作者: ヲワ・おわり


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第16話 忠義者の小姓の手が、なぜ、震えていたのか

半三郎という小姓のことは、名だけは、明日香も知っていた。


十六の、まだ少年の面影を残した若者だ。城主・氏久の身のまわりに仕え、実直で忠義に厚いと、女中たちの評判もよかった。廊下で行き会えば、下女の明日香にさえ、律儀に会釈をする。そんな、まっすぐな少年だった。氏久が家臣や領民の名を覚えているように、半三郎もまた、その主君を心から慕っていた。殿のためなら火の中へも、と口にしてはばからぬ、一途な若者だと聞く。


その半三郎の様子が、近ごろ、明らかに、おかしかった。


於松を味方に得て、逃がしの段取りが動き出した、その矢先のことだ。明日香は、井戸端で水を汲みながら、幾度も、彼の不審な姿を見かけた。人目を避け、柱の陰から、こそこそとあたりを窺う。誰かと会っては、逃げるように立ち去る。かつての、はきはきとした挙動は、どこにもなかった。


一度、廊下でばったり出くわしたとき、半三郎は、明日香と目が合うなり、はっと顔を背けた。まるで、見られてはならぬものを、見られたかのように。


そのとき、明日香は、見てしまった。


彼の手が、震えていた。


盆を持つその指が、小刻みに揺れている。顔からは血の気が失せ、目の下には、深い隈が刻まれていた。眠れていない。何かに、ひどく怯えている。それは、後ろ暗いことをした者の顔というより、もっと切実な――追い詰められた者の顔だった。


看護師として、明日香は、数えきれぬ人の顔を見てきた。病の苦しみに耐える顔。死を恐れる顔。そして、言えぬ何かを一人で抱え込み、押し潰されそうになっている顔。半三郎の表情は、その最後のものに、よく似ていた。


ある日の夕暮れ、明日香は、厨の裏手で、半三郎が誰かと小声で言い争っているのを、偶然、耳にした。相手の姿は、壁の陰で見えなかった。ただ、半三郎の声だけが、切れぎれに届いた。「それだけは。それだけは、堪忍してください」。すがるような、その声。何かを必死に拒もうとして、拒みきれずにいる響きだった。明日香が近づく足音に気づくと、半三郎は弾かれたように口をつぐみ、青い顔で走り去った。


(あの子、何かに、追い詰められている)


ただの裏切りや、悪事ではない。そう直感した。あの怯えようは、進んで悪に手を染めた者のものではない。何か、どうしようもない事情に、絡め取られている。そんな気がしてならなかった。


気になって、明日香は、それとなく、半三郎のことを探ってみた。佐吉の情報網も、借りた。


やがて、一つの事実が、浮かび上がってきた。


半三郎の母が、城下に、独りで暮らしているという。半三郎は幼くして父を亡くし、女手ひとつで育ててくれた母のために、この城へ奉公に上がった。母を養い、いつか楽をさせてやる。それが、彼の、たった一つの願いだった。


だが、その母の身が、近ごろ、誰かに握られている気配がある、というのだ。


佐吉が、声をひそめて言った。「妙な話でな。半三郎の母親の家の周りを、近ごろ、柄の悪い連中がうろついてるって噂だ。まるで、見張ってるみてえに。それも、ただの浪人じゃねえ。金で雇われた、荒事専門の連中だとよ」


佐吉は、苦い顔で続けた。「半三郎の母親は、体を悪くして、寝たり起きたりだそうだ。息子だけが、頼りの綱でな」


聞くほどに、絵が、見えてきた。病がちの母。それを見張る、雇われた男たち。息子は城で、殿の間近に仕えている。城の内情を、誰よりよく知る立場だ。


明日香の背を、冷たいものが伝った。


母を、人質に取られている。半三郎は、その母の命と引き換えに、何かを――おそらく、城の内情を、誰かに流すことを、強いられているのではないか。だとしたら。あの震える手も、血の気の失せた顔も、すべて、説明がつく。


忠義の少年に、進んで主君を売るような真似が、できるはずもなかった。だが、母の命を盾に取られたら。楽をさせてやると誓った、たった一人の肉親を、殺すと脅されたら。十六の少年に、どうしろというのか。断れば母が死に、応じれば主君を裏切る。どちらを選んでも、地獄しか待っていない道へ、彼は追い込まれていた。


半三郎は、加害者ではない。被害者だ。


守りたいものを守るために、心を殺して、裏切りに手を染めさせられている。忠義に厚い少年ほど、その葛藤は、地獄だろう。主君を裏切る罪と、母を見殺しにできぬ情の間で、彼は、たった一人、引き裂かれている。


胸が、締めつけられた。


手を、差し伸べたかった。あなたの事情は分かる、と。一人で抱えなくていい、と。だが、できなかった。


下手に近づけば、どうなるか。追い詰められた半三郎が、怯えのあまり、明日香のことまで、脅している相手に告げてしまうかもしれない。そうなれば、逃がしの計画も、志乃と千代の命も、すべてが露見する。半三郎自身を、さらに追い詰めることにも、なりかねない。


救いたい。けれど、動けない。


その、もどかしい距離を前に、明日香は、唇を噛んだ。すぎのときも、志乃のときも、まず相手に触れることから、すべてが始まった。だが、この少年には、うかつに手を伸ばせない。


それに、彼が握らされている秘密は、あまりに危うかった。半三郎が城の内情を流しているのなら、明日香たちの逃がしの動きも、いずれ彼を通じて、敵の耳に届きかねない。現に、あの先回りされた警固の強化は、半三郎から漏れた話が、元だったのかもしれない。救いたい相手が、同時に、こちらの計画を脅かす存在でもある。事は、単純ではなかった。


それでも、と明日香は思った。見捨てることは、できない。半三郎もまた、この時代の非情さに、押し潰されようとしている一人だ。記録には残らない、名もなき少年の悲劇。ならば、そこにも、手の届く余地が、あるはずだった。ただ、今はまだ、その方法が、見つからない。


一つだけ、はっきりしていることがあった。半三郎を、この地獄から引きずり出すには、まず、彼を脅している当の相手を、突き止めねばならない。母を人質に取り、忠義の少年を、じわじわと壊していく。そんな残酷な真似をして、なお平然としていられる者。この城で、それができる立場にいて、なおかつ、城の滅びを冷ややかに見越して動いている者。


確かめねばならないことは、もう一つ、あった。


半三郎を、こんなふうに追い詰めているのは、誰なのか。母を人質に取り、忠義の少年に、城を売る片棒を担がせている、その黒幕は。


明日香の疑いは、じわじわと、一人の男へ収束していく。保身のためなら、この城さえ売りかねない――あの、醒めた目をした重臣へと。

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