第15話 立ちはだかった老女は、四十年、一人の姫を悔いていた
四月が終わろうとする、ある宵のことだった。
八方塞がりのまま、明日香は、洗い場の裏手の供養塔の前に、一人、しゃがんでいた。すぎの石塔に、手を合わせる。何か、道はないか。行き詰まったとき、この場所へ来ると、少しだけ、頭が静かになる気がした。
「そこで、何をしておる」
背後からの声に、明日香は、はじかれたように振り返った。
於松が、立っていた。薄闇の中で、白髪だけが、ぼうと浮いている。いつ来ていたのか、まるで気配がなかった。明日香が、慌てて立ち上がろうとするのを、於松は、手で制した。
「そのままでよい。逃げるでない。逃げれば、かえって怪しかろう」
その言葉に、明日香の心の臓が、跳ねた。
「おまえが、何を企んでおるか。わたしは、とうに気づいておる」
膝から、力が抜けそうになった。見抜かれていた。この、奥のすべてを見通す老女に。逃がしの計画も、佐吉との共謀も。血の気が引いていく。ここで白を切れば。いや――無駄だ。この人には、通じない。
明日香は、覚悟を決めた。凍りついた計画を、どのみち、このままでは動かせない。ならば、賭けるしかない。
隠し通せる相手では、なかった。ならば、いっそ、すべてを晒して、この人に賭ける。見抜かれていたということは、裏を返せば、まだ、誰にも突き出されていないということだ。もし於松が、明日香を罰するつもりなら、とうに、そうしていたはずだった。その一縷の望みに、明日香は、自分の首を、預けることにした。
「……側室の志乃さまと、姫さまを。落城の前に、この城の外へ、逃がそうとしております」
震える声で、明日香は、すべてを打ち明けた。城が遠からず落ちること。記録に残らぬ者だけは、救える余地があること。だから、あの母子を、生き延びさせたいこと。隠さず、洗いざらい。首を刎ねられても、文句の言えぬ告白だった。
於松は、黙って、聞いていた。
叱責も、怒号も、なかった。ただ、じっと、明日香の顔を見ている。そして、すべてを聞き終えると、老女は、ゆっくりと、供養塔のほうへ目を向けた。
「……昔な」
ぽつりと、於松が言った。いつもの、鋼のような声ではなかった。
「わたしが、おまえと同じ年ごろの、まだ小娘のときだ。この城には、それはお美しい、若い姫さまが、おられた」
明日香は、息を殺して、聞き入った。
「わたしは、その姫さまに、お仕えしておった。姫さまは、わたしを妹のように可愛がってくださってな。だが、あるとき、御家の都合で、姫さまは、遠くへ嫁がされることになった。望まぬ、政略の婚儀だ。姫さまは、泣いて、嫌がられた。行きとうない、と」
於松の声が、掠れていく。
「わたしは、お側にいながら、何もして差し上げられなんだ。しきたりが、身分が、それを許さぬと、そう己に言い聞かせて、姫さまの手を、振りほどいたのだ。輿入れの朝、すがるあの方の手を。それが、姫さまを見た、最後になった」
嫁いだ先で、その姫は、ほどなく亡くなったのだという。心を病んで、みずから命を絶ったとも、聞いた。真偽は、分からぬまま。ただ、あのとき差し伸べられた手を、自分は取らなかった。その悔いだけが、四十年、於松の胸に、消えぬ楔となって、残り続けた。
あの姫の、泣き濡れた顔を。すがるように伸ばされた、細い手を。振りほどいたときの、指先の感触を。於松は、四十年、一日として、忘れたことがなかったという。夜、目を閉じるたびに、あの朝が甦る。しきたりを盾に、己の身を守った。その代わりに、いちばん大切な人を、見殺しにした。供養塔に眠る名もなき者たちに、毎日欠かさず手を合わせるのも、その贖いのつもりだったのだろう。だが、どれだけ弔ったところで、あの一人の姫だけは、二度と還ってこない。
「以来、わたしは、しきたりの鬼になった。せめて、奥の秩序だけは守り抜こうと。だが、それは、ただの、逃げだ。あのとき手を取れなんだ己の弱さから、目を逸らすための、な」
だから、と、於松は、明日香を見た。その目は、涙で濡れていた。
「おまえが、誰も顧みぬ婆の手を、しまいまで握ってやるのを見て。おまえが、身を捨てて、母子を救おうとするのを知って。……わたしは、否めなんだ。憎らしいほど、眩しかった。おまえは、わたしが、あのとき、できなんだことを、しようとしておる」
明日香の頬にも、涙が伝っていた。この厳しい老女が、ずっと、たった一人で、抱え続けてきたもの。その重さが、痛いほど、伝わってきた。
「於松、さま」
「わたしに、手伝わせろ」
老女は、袖で乱暴に目もとを拭うと、いつもの、凛とした声に戻って言った。
「奥のことなら、わたしの庭も同然じゃ。女どもの目も、見張りの隙も、いつ、どこが手薄になるか、すべて頭に入っておる。志乃さまと姫さまを連れ出す、その段取り――このわたしが、つけてやる」
凍りついていたものが、音を立てて、動きだした。
奥のすべてを掌握する、最強の実力者。越えられぬと思っていた壁が、味方に回った。それも、暴力でも、策略でもなく、同じ悔いを分かち合うことで。明日香の中に、久しく忘れていた、大きな力が、湧いてくる。
ありがとうございます、と頭を下げる明日香に、於松は、ふん、と鼻を鳴らした。「礼を言うのは、母子を無事に逃がしきってからにせい。それに、これは、おまえのためではない。四十年前の、わたし自身のためだ」その不器用な言い草が、かえって、胸に沁みた。この人は、あのときの姫を、今度こそ、桔梗の手を借りて、救おうとしている。
その夜のうちに、話は具体的に動きはじめた。於松は、奥の見張りの割り振り、女中たちの気質、どの刻限にどこが手薄になるかを、淀みなく諳んじてみせた。明日香と佐吉だけでは、何日かけても掴めなかったであろう事どもが、一夜にして、手に入った。奥を四十年見つめてきた者の知恵は、まさに、千の目にも等しかった。
だが、その高揚も束の間だった。
数日後、明日香は、ふと気づいた。城主に仕える、あの忠実だった若い小姓――半三郎の様子が、近ごろ、明らかに、おかしい。人目を避け、何かに、ひどく怯えている。血の気の失せたその顔は、まるで、恐ろしい秘密を、たった一人で抱え込んでいる者の顔だった。




