紀行記怪談『新府城』- 戦国大名 武田家最後の館 - 武田勝頼
甲斐国編です。
新府城は、武田勝頼によって天正9年(1581)、山梨県韮崎市の七里岩の台地上に築かれた平山城で、昭和48年(1973)に国史跡に指定されている。
甲斐の戦国大名武田勝頼が、最後の居城として精魂込めて築城した城(館)。
甲府の躑躅ヶ崎館と基本的な構造が、ほぼ同じ「館造り」であったという。
勝頼の在城わずか68日間、築城から一年余りで自焼で焼失という極めて短命に終わった悲運の城でもある。 … が、至る所に武田氏の築城技術の粋が込められており、戦国の名城とされる。
( 新府城 説明看板 )
七里岩は、火山である八ヶ岳の山体崩壊に伴う岩屑流が、韮崎市を貫流する富士川水系の支流である釜無川と塩川の二大河川によって、東西の左右から開削されることで形作られた、断崖の絶壁が連なる台地である。
新府城はこの台地の南端、標高524mの「西の森」と呼ばれる小山に築かれており、西側は釜無川を眼下に望む、比高差90mの急崖となっている。
( 台下西側の国道20号線側から新府城のある七里岩を望む )
( 手前の河川は釜無川 右の橋は桐沢橋 )
( 七里岩の断崖絶壁 )
◇◆◇◆◇…
韮崎市街から七里岩の上へと上がり、この新府城脇を通り抜け、山梨県の北部に位置する北杜市長坂町へと抜ける県道17号(七里岩ライン)。
新府城を訪ねた時期が、城の周辺に植えられた桃畑の花の時期とちょうど重なり、城の先にある市営の無料駐車場には沢山の県外ナンバーの車が。そして老若男女とりどりの観光客たちが、濃いピンク色の桃の花を背景に写真に納まっている。
桃の開花に先駆け、満開を過ぎたばかりの桜の花たちも、まだ枝先で淡いピンクの花を咲かせていたから。
駐車場に車を停め少し歩くと、右手の城郭の県道脇に急な石段があり、その横に史跡 新府城跡の石碑と説明書きの看板があった。
石段は急こう配で、200段以上あるそう。見上げると、途中に赤い鳥居が見え、真直ぐに上へと延びている。首が痛くなりそうな急な角度で。
この石段は明治時代以降に作られたもので、武田氏の時代にはこの場所は、急峻な断崖の天然の防護擁壁になっていたという。
( 急な石段が続く、本丸跡へ上る階段 )
一. 《 本丸跡 》
階段を登りきった所は、新府城の本丸跡地だった。広さは東西90m、南北150mある、広い広場になっている。
広場の東側に「藤武神社」が、北側には勝頼を祭った石祠「武田勝頼公霊社」があった。この本丸北側の高台からは、北に雄大な八ヶ岳の姿を望み見ることができた。
「藤武神社」は、武田勝頼が新府城築城の節、城内の稲荷郭に城の鎮守として祀ったとされる。
新府城の落城とともに焼失してしまったものを、その後徳川家康が「藤武神社」として再建したものだという。
( 藤武神社拝殿 )
( 武田勝頼公霊社 )
( 本丸跡北側から望む八ヶ岳 )
(蔀の構え遺構 本丸と馬出しの間にあり、城内を見透かさないよう工夫した土塁)
( 本丸跡の広場 )
二. 《 二の丸跡 》
何もない、草木の枯れ枝の生した広場。54m四方の広さがあり、周囲を土塁がめぐる。正面の木々の間に白い残雪を被った西の山の峰が見える。
広場の傍らに、葉桜となろうとする枝に僅かばかりのピンクの花を付けた山桜が咲いていた。
( 二の丸跡 )
三. 《 丸馬出し、三日月堀 》
大手枡形虎口、丸馬出しの土塁や、その先に続く三日月堀の遺構が発掘調査の後、芝生広場として綺麗に整備されている。
城の南面にある、枡形虎口に続く丸馬出しの向こうに、白く残雪を纏う大きな富士山の姿が立ち上がって見えていた。
下の駐車場から坂を上がってきた、見学のおばさんたちの集団に声をかけられる。
「本丸までは、あとどれくらいですか?」
「そうですね … 5分くらいかなぁ …」
「私は参道の急な階段を上がってきたので …、皆さんとは逆のコースで下りてきていますけど ……」
「あと、5分くらいで本丸に着くんだって!」
おばさんは、後ろに続くおばさんたちのグループに向かってそう声を上げる。
"「上り坂で山道だしなぁ。しかも街歩きの格好のおばさんたちだし … 10分でもきついか?」"
私は後ろを振り返りながら、そう訝しがる。
「まぁ、いいか」
そしてまた、本丸から続く坂道を下った。
( 大手桝形虎口の土塁 )
( 丸馬出しの向こうの富士 )
( 南側から見た大手桝形虎口土塁 )
( 三日月堀 )
四. 《 西・東三の丸 》
赤松の木々が立ち、枯れ枝に新緑が芽吹く雑草の藪の前に、西三の丸の看板が立っていた。
かろうじて、土塁に囲まれ平地だと分かる程度の藪地だった。
大手を過ぎた左手には東三の丸の看板が。
枯れた藪と太い赤松や灌木の木々の茂みに覆われるばかりの、荒れ果てた高台の傾斜地にしか見えなかった。
( 西・東 三の丸現況 )
五. 《 南大手門 》
( 県道からの、本丸跡地に向かう山道 )
私が下りて来た林道は、後年、本丸跡地に登るために開かれた道だった。だから、下の往来から簡単に上ることができたのだが。
往時は、大手から馬出し、そして場外へと続く、城の防御のための道があったのだろう。
今は改変され、分かりづらくなっているようだった。
◇…◆…◇…
六. 《 城の北側の遺構 》
東西出構、堀、乾門跡
( 東出構 )
( 北側の堀 東堀 東出構から西出構方面を望む )
( 西堀 水堀 )
( 乾門 ニ之門礎石遺構 土塁 )
( 乾門 一之門 土塁 )
◇◆◇◆◇…
伝承によると、新府城を捨て、東へと落ちて行く際、勝頼は人質を解放することなく城に火を掛けたという。
牢獄に繋がれたままの武田領の各地から捕った人質たちを、牢獄に押し込めたまま火を放った。
人質たちは業火の中で無惨にも、ただ焼け死んでいった …
ものの本によると、甲斐国の各所に分散され、軟禁されていた人質たちの数は900人とも。
新府城が炎上した日、この城に何人の人質が囚われていたのだろうか。
「助けてくれ ~ 誰か ~ 熱い、熱 ぃ あつ … …」
「誰か 、誰、 ヵ … … たす ゖ …」
人質たちの泣き悲しむ声は天にも響くばかりで、その哀れさは言葉にも尽くせぬほどと、『信長公記』は伝えている。
焼け死んだ人質たちは、この城郭のどこに囚われていたのだろうか。
今は太い灌木の木々と、枯れ果てた藪深い雑草の繁茂する茂みの中の。
武田家が滅んで久しい今も、ここで焼け死んだ者たちの魂は、毎夜、劫火の炎に焼かれ助けを求める呻きの声を上げ続けているのだろうか。
再起を計り城を捨てる際、城に火を放ち自焼する行為は、当時の武家社会に伝わる伝統としての ” 作法 ” だったという。
領内内の各城を守る武将たちから人質を捕るという行為は、決して裏切る事なく主人に使えることを意味する。
そしてそれは、裏切りを行った時は人質の命は無いことも意味していた。
だから、人質もろとも城に火を放つ事も、この作法だったと言うのだろうか。
勝頼は、降伏のためではなく、再起、武田家の再興の意思を示す意味で、古来からの ” 作法 ” に則り新府城を焼いたのだという。
では、なぜこの様な行いをしたのか … 城を、人質たちもろとも焼き尽くすとは。
これも伝統による作法なのだろうか。
彼のこの様な行いが、勝頼の終焉の幕切れを予見し、物語っていたのだろうか。
( 本丸跡地 )
◇…◆…◇…
織田信長の甲州征伐が開始されると、人心を失った勝頼方の武将の多くが寝返り、武田の城も次々に自落していった。
信長は、勝頼は最後の決戦を挑んでくると。それこそが、武田家代々の名誉を最後に担う勝頼の作戦だと考えていたという。
織田・徳川連合軍を甲斐の国深くまで引き込んでから、新府城を枕に華々しく散る覚悟で …。
だが、天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍が信濃国へ侵攻し、甲斐国に乱入して来るに及ぶと、勝頼は織田・徳川連合軍との決戦をすることもなく、何処へともなく逃亡してしまう。
この勝頼のあり様を、信長は、「武田家代々の名誉を汚してしまった」と、言ったという …。
その時、勝頼は武田家の再起のため、後方への撤退を進言した小山田信茂の言に従い、新府城に火を放ち、落ちて山梨県大月市にある小山田信茂の居城、『岩殿城』を目指していた。
しかし、信茂の離反により岩殿城への入城を果たせなかった勝頼は、甲州市にある天目山で追手に追い詰められる。
新たな甲斐国の統治の要として、国府をここ新府に移して僅か一年弱。
甲斐国守護としての武田家の再起を計るため、新府城に火を掛け、東へと逃れてから僅か8日後、勝頼は夫人と嫡男 信勝とともに天目山で自刃して果て、格式ある名門武田家は滅び、終焉を迎える。
勝頼親子の首級と対面した信長は、勝頼を「日本にかくれなき弓取」と評したとも伝わる。
勝頼の敗因は、全てが、“ 運 ” が尽きたことが原因だとも。
もし、小山田信茂の勧めた岩殿城ではなく、真田昌幸の『岩櫃城』に向かっていたなら、勝頼のその後の人生は、果たしてどうなっていたのだろうか …
◇◆◇◆◇…
霧深い夜の深夜、騎馬に跨り色鮮やかな甲冑に身を包んだ鎧武者が、この道を横切るという。
それは丁度、左手の城の北面の防備のために築かれた西堀と東堀、そして出構がある辺りから道を横切り、右手の東側の堀、首洗い池と呼ばれる堀の方へと道を横切り渡って行く。
( パカッ …、 パカッ …、 パヵ…… )
シーンと 静まり返る白い夜闇の中、城脇の暗い霧の闇の中から現れた騎馬武者は真っ白な濃霧の中、馬の蹄の音だけを鋭く白い夜闇の中に響かせながら道を横切り、また濃く暗い白い霧を纏う闇の中へと消え入ってゆく。
( パヵッ …、 パヵ …、 パ …… ヵッ … )
それは、昔この場所で、命を落とした武者たちの魂だったのだろうか …
黄泉の国への扉の開く、霧深い闇夜の深夜、騎馬武者たちは、今だこの城を警護しているのだろうか。
守るべき主人も主家も、もはや現世からとうに失われ、久しいというのに。
何が、彼らを彼の地に縛りつけているのだろうか。
彷徨える、哀れな、この数多の魂たちを。
この話は、昔、お尻のとても大きな獣医さんから聞いた話だった。
「私は、見たことがある」と。
そう彼女は、私に語ってくれた。
その時、「私には霊感がある」とも言っていた。まぁ確かに、かなり怪しい雰囲気を身に纏った女性だったのだが。
また、いつか …。
霧深い深夜に、ここをまた訪れてみたいと思う。道を横切りゆく、騎馬を駆る鎧武者に会いに ……
( 騎馬武者が横切るという城前の県道 )
( 霧深い深夜、ここを馬に乗った鎧武者が … )
( 城の東側 首洗い池の堀 )
(了)
お読み頂き、ありがとうございます。
「新府城」、武田流築城技術が詰まった素敵な城(館)跡でした。
武田家滅亡後、天正壬午の乱において、徳川家康が甲斐進出を目論む北条氏に対する拠点として、この新府城を再活用し、その防御力の高さを実証したとも伝わっています。
やはり、武田が誇る戦国の名城の一つだと思います。
しかも、四百有余年の年月を重ねた今、当時の城郭の遺構が大変よく保存されていることも嬉しいかぎりです。
発掘調査がなされ、貴重な城郭作りの知見が明らかになっていることも。
ただ、織田・徳川連合軍の甲斐国侵攻に備え、急ピッチで築城が進められた新府城は、三の丸や大手の馬出の遺構などの防御設備が、他の武田の城郭に比べまだまだ未完の状態だったのでは、とも。
もし、新府城が、武田流城郭としての完全な城(館)として完成していたら。勝頼は、この城を枕に華々しく名門武田家の名誉を守り、戦って散っていたでしょうか …
またいつか、この地を訪れてみたいと思います。
あの、獣医さんに聞いた怪談話を確かめるため、次は、深夜の、霧深い闇の晩に ……




