紀行記怪談『躑躅が崎館・楯無鎧』- 武田神社の天守台 -
甲斐国編です。
中央本線 甲府駅南口 駅前ロータリーの一角に、『武田信玄公銅像』が建てられている。
上杉謙信と、北信濃の覇権をめぐり何度も対峙した、かの有名な川中島の戦いの陣中における信玄の姿を模しているとのこと。
石組みの台座の上に佇む銅像の高さは、3.1mあるそう。
床几にどっしりと座り、右手に鉄扇の軍配を構え、左手に数珠を持ち周囲に睨みを利かせるその姿は、さすがは戦国時代の名将にふさわしい迫力のある堂々とした御姿である。
武田信玄公の姿を現在に伝えるものとして、高野山成慶院に伝わる「武田信玄像」の肖像画がある。
私の様に古い人間には、その絵に描かれた堂々とした恰幅の良い姿こそ、戦国の世に無敵を誇った武田騎馬隊を始めとした「甲州軍団」を意のままに操った武田信玄の、まさにイメージどおりの姿だった。
( 駅前の信玄公銅像も、この肖像画を基にしているという )
しかし近年の研究では、この信玄の絵は、全くの別人を描いたものだとするのが通説となっている。
描かれている家紋の相違や、この絵を描いた高名な絵師 長谷川等伯と信玄との接点が無いことなどがその理由であるとのこと。
私が勝手に思い描いていた戦国武将『武田信玄』は、まさにこの銅像や肖像画で見る姿だった。
だが、もしかすると … 実際の御姿は、私のイメージとは違うのかもしれない。
でも、甲府の駅前で力強く佇む信玄公の銅像こそ、民衆からも『お屋形様』と敬われた信玄公の姿として、私は好きだが …。
( 武田信玄公銅像 )
( 高野山成憲院所蔵 武田信玄像 )
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『躑躅が崎館』(現 武田神社)
甲府の駅を過ぎて北へ約2km。武田通りと名付けられた、真直ぐな緩い勾配の道を進むと、正面に、掘割りを渡る赤い橋の向こうに石造りの階段と鳥居、そして両脇に緑の木々の茂みが見える。
この森が武田三代の居館であり、かつて甲斐国の府中だった躑躅が崎館跡だった。
今は『武田氏館跡』として国の史跡に指定され、主郭跡には現在、武田神社が建っている。
館跡へと続く武田通りの両脇には、かつて武田家に仕えた重臣たちの屋敷が連なっていたという。その屋敷のあった場所には道沿いに、重臣たちの名前を刻んだ茶色い支柱と武将の説明案内板が建てられていた。
「武田典厩信繁屋敷跡」
「武田刑部少輔信廉屋敷跡」
「山本勘助晴幸屋敷跡」
… などの武田二十四将の屋敷跡が。
( 武田通り沿いに立つ 武将の屋敷跡 説明案内板 )
( 武田神社入口(本来は土塁で囲まれ、ここに入り口は無かった))
( 武田神社拝殿 )
( 躑躅が崎館跡 )
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武田氏終焉の地、天目山( 現 山梨県甲州市大和町 田野 )。
武田勝頼率いる武田騎馬軍団が、織田信長・徳川家康連合軍の火縄銃三段打ちの前に敗れたと伝わる、有名な「長篠の戦い」から7年。
天正10年2月3日、信濃国木曽谷を守る木曾義昌が織田氏に寝返ったことを契機に、織田・徳川連合軍による甲州征伐(武田征伐)が開始される。
甲府の躑躅ヶ崎館から韮崎の新府の地に甲斐国府中を移し、居館として新たに築いた新府城への居住、僅か68日。
迫り来る敵の大群に、武田家重臣 小山田信茂の進言により、岩殿城(山梨県大月市)へと落ちる覚悟を決めた勝頼は、武田家の再興を誓い、3月3日、新府城に火を掛ける。
しかし、小山田の裏切りにより岩殿城への入場は果たせず、武田家再興の夢が潰えた勝頼は、最後の死地を求め僅かばかりの兵を引連れ、北条夫人、嫡男 信勝 とともに天目山へと向かう。
そしてそこで、追っ手の織田軍との武田最後の戦となった、『天目山の戦い』が起こる。
この土地「天目山」は、応永24年(1417年)、勝頼から遡ること七代前の第13代武田家当主 武田信満が室町幕府に追い詰められ山中の木賊村で自害し、武田氏が一度断絶した因縁の場所。
多勢の織田の軍勢に追い詰められ、自身の最後を悟った勝頼は、敢えてこの場所を死地に選んだとも伝わる。
天正10年(1582年)3月11日、近臣が奮闘し、追っ手から自害の時を稼ぐ中、武田家第20代当主 武田勝頼は、妻子とともにこの地で自刃し、由緒正しき甲斐国守護大名 武田氏は遂にここで幕を閉じた。
勝頼 37歳、信勝 15歳だったという。
本能寺の変で織田信長が横死したのが、天正10年6月2日。この武田氏滅亡の日から、およそ三ヶ月後のことだった。
この後、天下の覇権は目まぐるしく変わり、甲斐国の領主も、織田氐から徳川氐へ、そして豊臣氐から再び徳川氐へと移っていくことになる。
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武田家に伝わる重宝『楯無鎧』
後冷泉天皇より下賜されたと伝わる『御旗』とともに、武田家代々の重宝とされる『楯無鎧』。
楯を必要としないほど、強固な鎧とされるのがその謂れ。正式名称は、『小桜韋威鎧 兜・大袖付』とされ、国宝に指定されている。
山梨県甲州市塩山にある「菅田天神社」が、現在所蔵している。
甲斐源氏の祖、新羅三郎義光以来、日の丸の『御旗』とともに『御旗・楯無』と呼ばれ、武田家に代々伝わり神格化されてきた。
武田家当主は軍事行動の際に、「御旗、楯無もご照覧あれ」とその前で誓約したという代々の家宝だった。
この、御旗・楯無の前で一度立てた誓約には、時の信玄公でさえも逆らえなかったという。
あの、武田家が、斜陽の坂を転げ落ちる契機となった長篠の戦では、多勢を誇る織田・徳川連合軍に対し、信玄公時代からの古参の重臣たちが非戦を主張する中で、合戦を主張した勝頼が楯無鎧に対して誓約を行い、反対していた重臣たちも異議を唱えられなかったとも伝わる。
その結果、全てを諦めた重臣たちは無謀とも言える鉄砲柵への突撃を繰り返し、古参の名だたる重臣たちは皆討ち死にしてしまう。
戦国時代最強を誇った信玄公の、負ける戦はしない という轍が活かされることもなく …。
全てが、偉大な父であった信玄公亡き後、甲斐国人の閉鎖的な気質に加え、己の心の中を理解してくれる味方も少ない中で国をまとめて行かざるを得なかった勝頼の、常に外へと 攻め続けなければならなかった ” 焦り ” が招いた結果だったのだろうか。
山梨県立博物館が楯無しの鎧を調査した結果、鎧は平安時代の兜の鉢などの部品を使って、鎌倉時代頃に製作されたことが明らかになったという。
その後、江戸時代に入り盗難事件に合い、大きく破損したことから大規模な修復作業が行われ、現在に伝わる姿になったそう。
だが、鎧には室町時代頃の製作と考えられる花菱の紋鋲が遺り、戦国時代、確かにこの楯無鎧が武田家の家宝であったことを物語っているという。
ただ、この楯無鎧がどのように伝えられてきたのかは、定かなことはわかっていない。
過去には、躑躅が崎館にあった「御旗屋」と呼ばれる建物があり、ここに御旗とともに楯無鎧を祀っていたという。
その後信玄が、甲府の丑寅(北東)、鬼門の方角にあたる菅田天神社に鬼門除けとして楯無鎧を奉納した。
天正10年3月の武田氏滅亡の際、勝頼が楯無鎧を戦場から移し、甲州市円塩山にある「向嶽寺」の杉の木の下に埋めて隠したとも。そして話を伝え聞いた徳川家康が掘り出して鑑賞し、菅田天神社に祀ったという話も伝わる。
だがこの話が生まれたのは、近代のことだと言われる。そして調査では、鎧が地中に埋められていた痕跡もないとの結果が得られているとも。
このように、楯無鎧のさまざまな伝承は時代を越えて生み出され、語り継がれている。
武田家の楯無鎧に対する信仰は、甲斐を治めた武田三代への ” 畏敬の念 ” とともに、この地に現在まで生き続けているという。
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菅田天神社の宝物庫に眠る、武田家代々の重宝として現世まで伝来している『楯無鎧』。
現代に至るまで、菅田天神社に秘蔵の秘物として伝わってきたものだという。
現在は年に一度、10月に1日だけ、しかも2時間だけに時間を限って公開している。
これも、国宝 楯無鎧の保存性を第一に考えてのことだとも。
公開が年に一回のごく僅かな期間だけであり、当然ながら今回、私が鎧を目にすることは叶わなかった。
過去の公開時の画像を検索・閲覧してみる。
菅田天神社の拝殿脇にある、御蔵のような宝物庫に収められている、国宝『小桜韋威鎧』。
それはどこか薄暗い影を纏い、そして鎧の背後の奥に垣間見える深淵の闇の世界から目覚め、現世に現れた ” 怪異 ” の姿にも感じられる。
武田家重代が積み重ねた華々しい過去の栄華と、それに重なる数多の闇の陰。
楯無鎧は、これらの闇の柵を、今だその身に纏い付かせ現世に伝来しているのだろう。
その醸し出す崩れた雰囲気は、この鎧がこれまで背負ってきた暗く大きな因果を感じさせている。強大な負の力を持った、呪物 として。
だからこそ、年に一度、僅か数時間しかこの世に姿を現すことができないほど … 未だ浄化できぬほどの …。
… 考え過ぎ … なのだろうか … 私の … …
( 国宝 楯無鎧 菅田天神社所蔵 ★公開は年一回、数時間のみという )
( 山梨県立博物館作成 楯無鎧複製 )
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『躑躅が崎館』の天守台の石垣
武田家の滅亡後、躑躅ヶ崎館は、時の権力者 豊臣秀吉や徳川家康の甲斐国統治の拠点として、その配下の武将たちによって再利用がされていた。
豊臣政権での主郭への天守台の建設や、徳川氐による館南面への梅翁曲輪の新設など。それらの遺構は今も、躑躅が崎館跡に残されている。
現在、躑躅ヶ崎館の南側に残る「梅翁曲輪」は、武田氐滅亡後 徳川支配(天正11年-18年)になった際、平岩親吉が作った可能性が高いとされる。
その後、豊臣秀吉が天下を統一し、豊臣政権の支配になったのが天正18年(1590年)。
それから、更に躑躅が崎館を南に下った地に甲府城(舞鶴城)の築城が始まり、完成したのが慶長3年(1598年)前後とされるため、少なくともその間は、躑躅ヶ崎館が甲斐領国支配の政治的な中心であった。
天守台は文禄元年(1592年)頃、豊臣家武将 加藤光泰が築いたと言われている。
私が思う豊臣秀吉像には、前時代的なイメージがある。
領民の統治のためには、権力の象徴の様な華美な天守閣を造り、その威光によって人々を上から押さえ付け人心を支配しようとするかのような。
だからだろうか、豊臣政権で甲斐の支配を任された武将 加藤光泰によって主郭北西隅に造られた天守台の石垣が、今もそのまま残っている。
実際に、この天守台に天守閣が建てられたという、歴史的な事実は無かったようではあるが。
… だが、もしそのまま豊臣氏の天下が続いていたとしたら、この天守台の上にも立派な天守閣が造られていたのだろうか …。
現在、この天守台の石垣は立ち入り禁止(非公開)となっている。 … が、武田神社 社務所の建物の間から、僅かながらその石積の姿を、覗き見ることはできるようである。
一昔前は、この天守台の石垣へ立ち入ることが、可能であったようなのだが …。
神社のお社の裏手の薄暗く鬱蒼とした木々の藪の向こうに、高く急勾配の苔むした野良石積みの石垣が見える様は、何か昔からそこに潜み棲む、怪しげな"怪異たち"の存在を感じさせてくれているような気もする。
それは … … 何か … … … … …
( 躑躅が崎館郭配置図 )
( 神楽殿の南に残る主郭中曲輪の土塁遺構 )
( 天守台への通路は、現在立ち入り禁止となっている )
( この先に天守台の石垣が … 新緑の木々の緑の葉に隠され、天守台を見ることはできなかった )
( 主郭中曲輪と西曲輪を分ける土塁遺構 )
( 西曲輪から堀越しに見た天守台 上部の石積が僅かに覗く )
( 同上 石積み )
( 西曲輪 北側桝形虎口遺構(北門))
( 味噌曲輪への土橋 )
( 味噌曲輪 )
( 味噌曲輪 馬出土塁遺構 )
( 稲荷曲輪遺構 )
( 味噌曲輪側からの天守台北側隅の土盛り(石垣の石積は見られない、堀底の底部にのみ石積が見られる))
( 天守台としては、未完成であったのだろうか … )
( 同上 天守台土盛り )
( 稲荷曲輪側からの天守台土盛り )
( 無名曲輪と、北側に望む 詰城としての要害城方面の山並み )
( 無名曲輪側からの天守台土盛り 灌木の木々の藪に、上部だけが僅かに見える )
( 御隠居曲輪 信玄公の生母 大井夫人の隠居所として伝承される )
( 武田神社大手門 (躑躅が崎館大手土塁と馬出土塁遺構 )
( 豊臣氏時代の馬出土塁遺構の下に、武田氏時代の馬出 三日月堀の遺構が残る )
( 大手馬出土塁遺構の向こうに望む、富士山の姿 )
( 信玄火葬塚 甲府市岩窪町 )
( 躑躅が崎館にほど近い、ここ、武田家重臣 土屋右衛門尉屋敷跡で信玄の遺骸は火葬され、そのまま邸内に安置されていたと伝わる )
( そして遺言による3年の死の秘匿の喪が明けた、その3年後、恵林寺で勝頼により葬儀が営まれた )
(了)
お読み頂き、ありがとうございました。
国史跡 武田氏館跡『躑躅が崎館』。
さすがは、戦国最強と言われた武田氏三代の居城だけあって、その規模も大きく、今に伝わる館の遺構も良く残されていました。
常に、甲斐国の外に向かって攻め続け、負ける戦は決してしなかった信玄公。
だからこそ、守るための城も天守も、造る必要も無かったのでしょうか。
強大過ぎた武田軍団だったからこそ、一度崩れ、内に攻め込まれると …
偉大で、周囲に敵を作り過ぎた信玄を父に、由緒ある武田家の統領として己の出自に苦しんだ勝頼。
常に外へと攻め続ける定めが、内へと向く転機となってしまった「長篠の戦い」。
「躑躅が崎館」から、「新府城」へと …。だが、一度陰った定めは、再び輝くことはありませんでした。
名門武田家の光と闇がしみ込んだ、国宝『小桜韋威鎧 兜・大袖付』。
通称『楯無鎧』。
ぜひ何時か、この目にしてみたいと思います。
そして、あの天守台の石垣をも。 いつか …




