9.
ある子息が、施設で働く女性職員にいつもの調子で近づいた。
薄ら笑いを浮かべて肩に手を伸ばし、「少しくらい相手をしてくれてもいいだろう」と声をかけた瞬間、その手は冷静に払われた。
「やめてください。私は嫌です」
その短い拒絶に、彼は笑った。
凪沙が一歩下がった時と同じように、怯えさせれば従うと思ったのだ。
だが次の瞬間、警備員が間に入り、彼の行動は制限された。
「この世界では、嫌だと言われたらそこで終わりです」
それは、凪沙が言えなかった言葉だった。
言っても意味がないと諦めさせられていた言葉だった。
彼はようやく、自分たちが奪おうとしていたものが身体の自由だけではなかったこと。
奪っていたものが拒む権利そのものだったのだと知った。
別の子息は、若い女性を値踏みするような目で見て、仲間内で笑った。
かつて凪沙に向けたのと同じ、相手を人ではなく品物のように見る視線だった。
だが、その視線に気づいた女性は眉をひそめ、すぐに距離を取った。
周囲の者も彼女を守るように立ち位置を変えた。
子息は初めて、自分の笑みが魅力的ではなく、周囲から警戒の対象に見られることを知った。
「この世界では、人を物のように扱う人は軽蔑されます」
その言葉は、彼らの胸の奥に汚れた鏡を突きつけた。
そこに映っていたのは、高貴な家の跡取りでも、女性に選ばれて当然と言われ続けた男の姿でもない。
相手の恐怖を楽しみ、拒絶を娯楽にしていた、卑しい加害者の顔だった。
夜、彼らは互いに目を合わせられなくなった。
誰が一番悪かったのかを責め合おうとしても、全員が同じ場所にいた。
全員が笑っていた。
全員が、凪沙の沈黙を同意だと都合よく読み替えていた。
「凪沙」
誰かが、掠れた声で名を呼んだ。
「すまなかった。怖がっていると分かっていて、面白がった。嫌がっていると分かっていて、追い詰めた」
謝罪は本心だった。
けれど、それは遅すぎであり、すでに届かない声だった。
凪沙は彼らの後悔など知らない。
彼らが自分の醜さに潰されそうになっていることも知らない。
知る必要もない。
翌日も、その翌日も、彼らにはブーメランが返ってきた。
近づけば警戒され、軽口を叩けば半歩下がられ、笑えば距離を置かれる。
誰かを下に見ようとするたび、自分たちの方こそ、この世界で最も信用ならない者として扱われた。
彼らは何度も、心から謝罪した。
王も、神官も、エリオルも、令嬢たちも、子息たちも。
凪沙を怖がらせたこと。
凪沙の事情を聞かなかったこと。
自分たちの常識を盾にして、彼女の人生を踏みにじったこと。
言葉だけではなく、膝をつき、額を床につけ、喉が裂けるほど詫びた。
「すまなかった、凪沙」
「許してくれ。どうか、もう一度だけ話を聞いてくれ」




