6.
やがてエリオルは、逃げ出すことも命じることも無意味だと知った。
身元不明の外国人として保護され、決められた部屋で、決められた時間に起き、決められた作業をする。
かつて王子として歩けば誰もが道を空けた男は、今では「順番を守ってください」と注意される側になった。
書類に名前を書くよう促されても、彼の名はどこの国にも存在しない。
王家の紋章を説明しても記録にない。
血筋を語っても証明できない。
自分を支えていたものすべてが、自分以外の誰かに認められて初めて意味を持つものだったのだと、彼は遅すぎるほど遅く理解した。
夜になると、エリオルは夢を見る。
白いドレスを着た凪沙に「笑え」と命じた自分。
震える彼女を見下ろし、「お前個人の事情など考慮されない」と切り捨てた自分。
そして目覚めるたび、彼は同じ言葉を聞かされる。
「この世界では、あなた個人の事情だけを特別には扱えません」
そのたびに、エリオルは吐き気を覚えた。
自分が凪沙へ投げた言葉が、少しも形を変えず、自分の喉へ戻ってくる。
誰も彼を憎んでいない。
ただ、この世界の規則として、当然のように突き返してくる。
それが、怒鳴られるよりも、殴られるよりも、彼には堪えた。
ある日、エリオルは通訳を介して、正式な登録のために自分の来歴を説明するよう求められた。
彼は背筋を伸ばし、王家の血筋と第二王子としての立場、そして凪沙との婚約について語った。
だが、担当者は眉ひとつ動かさず、最後にこう尋ねただけだった。
「その婚約について、相手の同意を証明できますか」
エリオルは答えられなかった。
王命だった。
国のためだった。
自分の世界ではそれが当然だった。
そう言いかけて、喉が詰まる。
かつて凪沙が何度も飲み込まされた言葉が、今度は彼自身の口を塞いだ。
「この世界では、本人の同意がない関係は認められません」
淡々と告げられたその一文は、剣よりも深く彼を抉った。
エリオルは初めて、自分が凪沙に押しつけていたものの名を知った。
婚約ではなく、名誉でもない。
ましてや、守護でもない。
…………ただの強制、だった。
その夜、エリオルは初めて声を殺して泣いた。
王族の矜持も、男としての面子も、すべて剥がれ落ちていた。
残ったのは、震える少女に笑えと命じ、帰りたいという願いを踏みにじった、愚かな男ひとりだけだった。
「凪沙」
彼は暗い部屋で何度も名を呼んだ。
「すまなかった。俺は、お前を人として見ていなかった」
返事はない。
届くはずもない。
許されるはずもない。
それでも彼は、翌日も、その翌日も、同じ言葉を繰り返すしかなかった。
なぜなら、それが彼に残された唯一の役目だったからだ。
凪沙に届かない謝罪を吐き続け、自分の罪を忘れないこと。
それだけが、第二王子だった男に与えられた贖罪だった。




