アヘアヘ
開会式は滞りなく進んでいた。
五十校の代表選手が整列し、巨大な透明天蓋の下を吹き抜ける冷気が、真夏の暑さを忘れさせている。
甲子園球場はもはや一つの都市施設であった。成層圏から降り注ぐ太陽光を調整する採光天蓋、選手の安全を守る衝撃吸収式グラウンド、競技中の全選手の状態を監視する医療観測装置、そして球場上空を静かに旋回する中継ドローン。二十一世紀の球場とは比較にならない設備を備えながらも、中央に広がる白球の舞台だけは、百年前と変わらぬ土と芝の姿を残していた。
「さあ、第五十回未来全国高等学校野球選手権大会、開会式もいよいよ終盤となりました」
実況席では、ベテランのアナウンサーが落ち着いた口調で場内の様子を伝えていた。
「今年も帝都工業、東北機械学園、関西重工附属、九州電装高校、北海道開拓学院など、全国の強豪校が勢揃いしております」
大型映像には各校の戦力分析が次々と映し出される。
最高球速。
反応速度。
人工筋肉出力。
観客たちは数字が映るたびに歓声を上げた。
「そして今大会唯一、詳細な資料が届いていない学校がございます」
アナウンサーは手元の資料を見直した。
「ハワイ県代表、高天原高校。監督、天戸照江先生。登録選手九名。それ以外の情報は現在のところ確認できておりません」
解説者も苦笑する。
「ここまで情報がない代表校は私も初めてですね」
「ただいま新しい情報が入りました」
実況席へ係員が駆け寄り、小型端末を差し出した。
アナウンサーは画面へ目を落とす。
「成層圏滞空型水素気球プラットフォームより海上監視情報です。南鳥島付近海域において、一隻の大型双胴アウトリガーカヌーを確認。船体識別信号から、ハワイ県代表高天原高校の輸送船であることが判明いたしました」
場内の大型映像へ、青い太平洋の映像が映し出される。
どこまでも続く紺碧の海。
その中央を、二本の大きなアウトリガーを左右へ張り出した一隻の帆船が、白い帆いっぱいに風を受けながら静かに進んでいた。
「現在、予定航路を順調に航海中。本大会には十分間に合う見込みとのことです」
観客席から安堵の声が漏れた。
「いやあ、まさか帆船で来る学校があるとは驚きました」
「本当に変わった代表校ですね」
映像はしばらく《アヘアヘ》を映したあと、再び開会式へ戻った。
一方その頃。
南鳥島北方海域。
大型双胴アウトリガーカヌー《アヘアヘ》は、穏やかな追い風を受けながら静かに北上を続けていた。
船首では疾風乱が水平線を眺め、静馬は帆の張り具合を確かめながら舵を取っている。
白銀剛は黙々と素振りを繰り返し、朝霧兄弟は左右のアウトリガーを点検していた。
鬼塚渚は甲板へ並べた野球道具を丁寧に磨き上げ、坂巻万次郎は木陰へ寝転んだまま、古びた野球漫画のページを静かにめくっていた。
天戸力だけは、船尾へ腰を下ろしたまま、じっと海風へ顔を向けていた。
やがて、小さくつぶやく。
「……静馬」
「何ですか」
「風が少し変わった」
静馬は帆を見上げた。
「いいえ。風向きはさっきから変わっていません」
「そうか」
力はそれ以上言わなかった。
しかし再び鼻先へ吹き抜けた潮風を、ゆっくりと吸い込む。
波が船腹をたたく音。
帆布を揺らす空気の震え。
潮の匂い。
そのすべてが、ほんのわずかではあるが、先ほどまでとは違っていた。
力は誰にも聞こえないほど小さく息を吐き、再び静かに水平線の彼方へ耳を澄ませた。




