マンガ
その時だった。
野球場の隅で寝転がっていた坂巻万次郎の前に、一人の若い高野連職員がしゃがみこんだ。
「それ……何を読んでいるんですか?」
万次郎は漫画本から目を離さず答えた。
「野球漫画です。」
「漫画?」
青年は首をかしげた。
万次郎はようやく顔を上げた。
「読んでみます?」
「い、いいんですか」
差し出された本を受け取った青年は、思わず息をのんだ。
「紙……。」
厚みのある紙を糸で綴じ、白黒の貧弱な印刷が施されている。
電子表示でも立体映像でもない。
紙そのものへ物語が刷り込まれていた。
「こんな本、初めて見ました……」
青年は恐る恐るページをめくった。
紙が擦れ合う乾いた音が耳に心地よい。
古びて黄ばんだ紙からは、どこか懐かしい匂いが立ちのぼっていた。
「百年以上前の本ですよ」
万次郎が少し誇らしげに言う。
「村じゃ大事な宝物です」
青年は夢中になってページを追った。
そこには、一人の奇妙な野球選手が描かれていた。
もとは音楽の世界を夢見ていた少年だったが、自分より優れた才能を持つ少女と出会い、自ら夢をあきらめて野球の道を選ぶ――そんな話だった。
「……いい話ですね。」
青年は小さくつぶやいた。
「でしょう」
万次郎は満足そうに笑った。
「だから何度読んでも飽きないんですよ」
その時、村中へ澄んだサイレンの音が響き渡った。
ウー――――。
長く穏やかな音色だった。
練習していた部員たちが一斉に動きを止める。
「昼飯だ」
白銀剛が短く言う。
誰一人文句を言う者はいない。
乱を先頭に、部員たちは自然と野球場を後にした。
高野連一行もそのあとに続く。
「みんな監督の家で食べるんです」
乱が振り返った。
「母さんのご飯はおいしいですよ」
代表団は顔を見合わせた。
「母さん?」
「ああ」
乱が答える前に、白銀が静かに口を開いた。
「天戸監督は、力の母親でもある」
「そうでしたか」
一同はうなずいた。
やがて監督宅へ着くと、玄関先で部員たちが次々と帽子や防具を外し始めた。
最後に天戸力が、ゆっくりとキャッチャーマスクへ手を掛けた。
金具を外し、大きな手で持ち上げる。
その瞬間だった。
「……えっ」
若い職員が思わず声を漏らした。
力の瞳は、どこも見つめてはいなかった。
焦点は宙をさまよい、生気を失った白い瞳が静かに前を向いているだけだった。
代表団は凍りついた。
「まさか……」
松岡が震える声を絞り出す。
「君は……目が……?」
力は穏やかな笑みを浮かべた。
「はい。見えません」
あまりにも静かな答えだった。
その場にいた誰一人、すぐには次の言葉を口にすることができなかった。




