第3話「盾の、内側」①
フェルドラク家の夕食の卓は、いつも静かだ。
武門の食卓は戦場の延長だと、祖父の代から言われてきた。無駄な音を立てない。皿の上のものを残さない。話すべきことがある者から、順に、短く話す。アルフォンスは物心ついた時からこの卓で育って、この静けさを、呼吸のように覚えてきた。
ただ、今夜の静けさは、いつもの静けさと少し違った。
父の手元に、文が二通、置かれていたからだ。
一通は、王宮の紋。この半月、この家に届き続けている類の文だろう。もう一通は——白い封蝋に、光の紋章。ルミエール公爵家の紋だった。
食事が半ばまで進んだところで、父は一通目を開いた。
読み終えるまで、顔色はいつもどおり動かない。読み終えてから、父は母に向かって、短く言った。
「出立の日取りが、固まりつつある。近いうちに、正式な沙汰が来る」
「……はい」
母は、それだけ答える。スープの匙を置く手が、音を立てなかった。音を立てないことが、この家の夫人の、返事の作法だった。
出立。
その言葉が卓に載るのは、初めてだった。支度、までは聞いてきた。支度はまだ、行き先を持たない言葉だ。出立は、違う。出立には、日取りがあって、方角がある。方角の先に、何があるのかは——この卓の誰も、まだ口にしない。
「アルフォンス」
「はい」
「私の出立の後、この家の当主代行は、おまえだ。家令と、母上を支えよ」
「……承知しました」
十四歳の少年に、まだ、と言う家ではなかった。武門の嫡男に、まだ、はない。それはアルフォンス自身が、いちばんよく知っている。知っていて、承知しましたと答えて——それでも胸の奥のどこかが一段、冷えた。
父が行く。名前のない何かの方へ。
そして父は、二通目を開いた。
白い封蝋が割られる、小さな音がした。ルミエール公爵家の文を、父は一通目と同じ速さで、同じ顔で読んだ。読み終えて、今度は、アルフォンスの方を見た。
「ルミエール公から、打診が来ている」
卓の上の燭台の火が、ひとつ、小さく音を立てた。
「婚約の件を、近く、正式に公示したいという趣旨だ。時節を鑑みるに、両家の結びつきを内外に示すことは双方の家にとって益がある——と、そういう文面だ」
母が、ほんの一瞬だけ、こちらを見た。
見たことに意味があるのかないのか、分からない速さで、視線はもう手元の皿に戻っている。母は先週、この婚約について、聞かなかった顔をなさった人だ。聞かなかった顔の下で何を聞いていたのかを、息子はまだ、知らない。
時節を、鑑みるに。
その言い回しを、アルフォンスは胸の中で、一度だけ繰り返した。時節柄、という言葉が、この頃は街のあちこちで聞こえる。船が減るのも時節柄。触れ書きが増えるのも時節柄。そして、婚約を急いで公示するのも——時節を、鑑みて。
誰も名前を呼ばないあの何かが、この卓の二通目の文の中にまで、入り込んでいる。
「公示となれば、社交の場での披露も伴う。ルミエール公は、早ければ冬のうちに、と書いておられる」
父の声は、事務の声だった。良いとも悪いとも、進めるとも待つとも、父はまだ言っていない。ただ、文面をこの卓に、正確に載せただけだ。
載せられた文面の隣に、一通目の文が並んでいる。
出立の文と、婚約の文。
盾の家を動かす文と、盾の家を結ぶ文。
二通の文は、同じ卓の上で、同じ方向を向いていた。武門の盾と光の名門の結びつきが、この時節に内外へ示される——その絵が誰にとって益なのかを、アルフォンスは考える。考えながら、胸の内側の布越しの小さな硬さの上に、心の中でそっと手を置いた。
この二通の向いている方向の、その先に。
海があって、水の都があって——あの子がいる。
「……返答は、いつまでに」
自分の声が、思ったより平らに出たことに、アルフォンスは自分で少し驚いた。
「急ぎではない。だが、時節が時節だ。長くは待たせられまい」
父はそう言って、二通の文を重ねて、懐に納めた。卓の上から文は消えて、食卓には、いつもの静けさが戻ってくる。その中で、アルフォンスは決めていた。
言うべきことがある者から、順に、短く話す。それがこの卓の作法なら——
次にこの件が卓に載る夜、話すべきことを持つ者は、自分だ。
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