第2話「善意の、檻」④
ヴィルフリート様にお会いするまでに、数日かかった。
お取次ぎしますね、と受け取ってもらったお願いは、丁寧に受け取られたまま返事にならずに消えていく。
だから私は、やり方を変えた。
お借りしていた本にお礼の手紙を挟んで、ご本人にだけ直接お渡しくださいと、お願いしたのだ。
本を粗末にできる人は、この王宮にいない。ましてヴィルフリート様の本なら、なおさらだ。
手紙は、届いた。返事は、翌日に来る。
通されたのは、書庫の奥の、本に囲まれた小さな書斎だった。
お礼を言うと、ヴィルフリート様は、三度読んだのですかと目を細めて笑ってくださる。
あの頃と同じ、静かな学者の笑い方だった。氷青の銀の髪も、音のない足取りも、あの朝と同じだ。テオ様と同じ色の髪をした、背の高い人。
でも今日、私はお礼だけを言いに来たのではない。
「ヴィルフリート様。……伺いたいことが、あります」
膝の上で、手をひとつ握った。
「私、帰りたいのです。秋のうちに、家に。船の便を調べていただいているのですが、この秋は船が少ないと、ずっと言われ続けていて。……船は、本当に、ないのでしょうか」
訊いてしまってから、心臓がひとつ、大きく鳴った。この問いは、疑いの形をしている。よくしてくださっている人たちを、疑う形を。それでも、訊かないままでは、もう前に進めなかった。
ヴィルフリート様は、すぐには答えない。
本の背表紙の並ぶ棚をしばらく見て、それから、私の目をまっすぐに見た。
「……船は、ある」
静かな声だった。
「帝国行きの便は、減ってはいるが、絶えてはいない。現に先週も、二隻出た」
やっぱり、と思う気持ちと、どうしてと思う気持ちが胸の中でぶつかった。ぶつかったまま、言葉にならない私に、ヴィルフリート様は続けた。
「船があるのに、あなたが乗れない。……それは、船の問題ではない。そして、あなたの世話をしている者たちの意地悪でもない。彼らは皆、命じられたことを命じられたとおりに、丁寧にやっているだけだ」
「……誰が、命じているのですか」
「この王宮で、それを決められる人は——ひとりしか、いない」
名前は、仰らなかった。仰らなかったことが、答えだった。
この国でいちばん上の人が、私を、帰さないと決めている。
「理由を、私の口から言うことはできない。ただ、これだけは言える。……あなたを閉じ込めて喜ぶ類の悪意は、この王宮のどこにもない。あるのは——」
ヴィルフリート様は、そこで少しだけ、言葉を選んだ。
「——あなたを、何かから守ろうとする気持ちだ。守り方が、正しいかどうかは、別として」
守ろうと、してくれている。
何から守られているのかは、教えてもらえなかった。教えられないことと、嘘とは、違うのだと思う。ヴィルフリート様は今日、私に、ひとつも嘘を仰らなかった。船はある、と言ってくださった。それだけでこの人は私の側に、足を半分、置いてくださっている。
帰りぎわに、もうひとつだけ、訊いた。
「あの……テオ様は、お元気でいらっしゃいますか。このごろ、お会いできていなくて」
ヴィルフリート様は、一瞬だけ、答えを選ぶ間を置いた。
「……ああ。元気だ。ただ、忙しくしている。あれは、いま——自分の言ったことを、守ろうとしている最中だから」
自分の言ったことを、守ろうとしている。
それから、ヴィルフリート様は本棚の方へ少しだけ目をやって、独り言のように付け足した。
「不器用な弟でね。昔から、欲しいものを欲しいと言うより先に、誰かのために動く方を選ぶ。……兄としては、少しばかり歯がゆいのだが」
そこで言葉を切って、ヴィルフリート様は私を見た。柔らかくて、でも、何もかも知っているような目だった。
「あれの作っている道が、どこへ向かう道なのかも、私は知っている。知った上で——弟のあの仕事を、誇りに思っている。だからあなたは、安心して、待っているといい」
はい、と答えるまでに、少しだけ時間がかかった。
この兄弟は、似ている。優しさの形まで、よく似ている。
「……私にできることは、少ない」
帰りぎわ、ヴィルフリート様は、書斎の扉の前で言った。
「少ないが——ゼロでは、ない。調べたいことがある。少し、時間をもらえるだろうか」
「はい。……ありがとうございます」
深く、頭を下げる。顔を上げると、ヴィルフリート様は、少しだけ困ったようなそれでいて決めたような顔で頷いてくださった。テオ様と、よく似た頷き方だった。
部屋に戻る渡り廊下では、秋の水明かりが、来た時より少しだけ濃くなっている。
怖くないと言えば、嘘になる。この国でいちばん上の人が、私の帰り道を閉じている。相手は、王宮そのものよりも大きい。
それでも、と歩きながら思う。
名前のない親切に囲まれているより、名前のある相手が分かった今日の方が、ずっといい。檻に鍵があるのなら、鍵には持ち主がいる。持ち主がいるのなら——道の、探しようがある。
夜、石に指先を置いた。
石は、いつもどおり、ほんのり温かい。海の向こうの火が、まだそこで灯っている温かさだ。指の腹で、その温かさをしばらく確かめる。
——会いたい。
不意に、その四文字が出てきた。
出てきてしまってから、少し、笑ってしまった。今日は前に進んだ日なのに。半月ぶりに一歩だけ進めた日なのに。進んだからこそ、分かってしまったのだ。一歩が、どれだけ短いか。ここから海までが、どれだけ遠いか。
指先ひとつで、この人には届く。
届くのに、指先ひとつぶんしか、届かない。
声も、顔も、隣も、この石には載らない。載らないと分かっていて、私は毎晩ここに指を置いている。
——会いたいです。
心の中でだけ、そう言って、それきりにした。灯には、載せない。
言葉にして重たくしてしまったら、あの方を、困らせるだけだから。海の向こうの侯爵家の嫡男に、平民の私が会いたいですと言って、どうなるというのだろう。できないことを、できない人に、頼むだけだ。
それでも、会いたい。
だから今夜も、いつもどおりの大きさで送る。
——また、朝に。
今日は、前に進んだ。半月ぶりに、一歩だけ。その一歩の分だけ、いつもより少しだけ長く、指先を石に置いていた。
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