↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/32

第2話「善意の、檻」③


翌日、ヴィルフリート様の本を、自分で書庫へ返しに行くことにした。


女官の人に預ければ、きっと丁寧に届けてくださる。

分かっていて、自分で行くと決めた。船も市もテオ様も遠くなっていくのなら、まだ遠くなっていないことを、ひとつずつ自分の足でやる。

それくらいしか、いまの私にできることがない。


付き添いのふたりは、三歩後ろを静かについてくる。


書庫への渡り廊下は、秋の水明かりで白く光っていた。

本を胸に抱えて歩いていると、廊下の向こうから、書類の束を抱えた人がひとり歩いてくるのが見える。


足が、止まった。


「あら」


柔らかい声も、ゆっくりした足取りも、あの頃のままだった。


肩の下まで流れる、アッシュブラウンのなめらかな髪。蜜のように澄んだ、琥珀色の瞳。アクアニアの装いの上に、中央魔導院の白い羽織。穏やかに整った顔立ちに、控えめな微笑——なにもかも、学院の中庭で初めて会った日のままだ。


セリーヌさん。


学院の、優しい先輩だった人。記録のお仕事をしている人。そして――大潮の夜のあとで、私の力に名前の付く場所を教えてくれた人。あなたが、書くのよ——と言った、あの声の人。


「お久しぶりね、リアネさん」


「……お久しぶりです。セリーヌさん」


「王宮のお勤め?」


「いえ、あの……本を、お返しに」


「そう。偉いのね、ちゃんと自分で」


セリーヌさんは、ふふ、と笑って——私の抱えた本の背表紙を目だけで読んだ。それから、私の三歩後ろのふたりを、同じ目ですっと読んだ。読んだことが分かったのは、たぶん、私だけだと思う。


「お元気そうで、よかった」


「はい。あの、セリーヌさんも——」


「わたしは、いつもどおりよ。お仕事が、少しだけ忙しくなったくらい」


セリーヌさんは、記録のお仕事の人だ。王宮でお見かけするのは初めてだけれど、考えてみれば、不思議なことではないのかもしれない。


「このごろ、府と王宮のあいだで、運ぶ書類が多いの。それで、よく伺うのよ」


私の顔を読んだように、セリーヌさんはそう言って、腕の中の束を少しだけ持ち上げてみせた。

運ぶ書類が、多い。何の書類が増えているのかまでは、仰らなかった。


書類の束を抱え直して、セリーヌさんは歩き出しかけて——それから、思い出したように足を止める。


「そういえば、お支度をなさっているのですって?」


どうして知っているのだろうと思う前に、はい、と答えていた。帰るんです、秋のうちに。そう言った私に、セリーヌさんはあの柔らかい目のまま、ひとつだけ頷いた。


「——お帰りに、なれるといいわね」


それだけ言って、書類の束と一緒に、渡り廊下の向こうへ歩いていった。


なれると、いいわね。


その言い方が、廊下の白い光の中に、いつまでも残った。帰ります、と言った私への返事が——いってらっしゃいでもなくお気をつけてでもなく、なれるといいわね。まるで、なれるかどうかを、私よりよく知っている人の言い方だった。





部屋に戻って、水盤の前に座った。


水を呼んで、待って、帰す。手は勝手に動く。動く手の後ろで、頭はここ半月のことをもう一度、並べ直していた。


船が、少ない。付き添いが、増えた。市が、遠い。テオ様に、会えない。鞄が、納戸にある。そして——なれるといいわね。


並べ終わって、私は、水盤の水面を見た。


見えてきた形の名前を、もう、口にしない訳にはいかなかった。


これは、檻だ。


口に出したら、思ったより、静かな声になった。怒りも涙も、出てこない。ただ、半月ぶん溜まっていた違和感が名前をもらって、すとんと腑に落ちた。


檻なら、見たことがある。


解いたことも、ある。


母様の水を閉じ込めていた、あの封印の檻。石と術式でできていて、力ずくでは決して開かないもの。あれを私は、帰り道を作ることで解いた。閉じ込められているものに、帰っていいよ、と伝えることで。


この檻は、石でできていない。


親切と笑顔と、また今度、でできている。鍵はどこにも見えなくて、扉はいつでも開いているように見える。それなのに、どの方向へ歩いても、優しく元の場所へ戻される。あの封印の檻と、この善意の檻と、どちらが解きにくいか——考えるまでもなかった。





夜、石に指先を置く前に、私は水盤の水をもう一度だけ呼んだ。


呼んで、待って、帰す。


来てくれた水が、するりと帰っていく。帰り道さえあれば、水は必ず帰る。私はそれを、この半年、毎朝この手で確かめてきた。


だったら、私も同じだ。


名前を付けたら、次にすることは、決まっている。怖がることでも、諦めることでもない。


——解き方を、探すことだ。





※noteでも毎朝連載中

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。