第2話「善意の、檻」③
翌日、ヴィルフリート様の本を、自分で書庫へ返しに行くことにした。
女官の人に預ければ、きっと丁寧に届けてくださる。
分かっていて、自分で行くと決めた。船も市もテオ様も遠くなっていくのなら、まだ遠くなっていないことを、ひとつずつ自分の足でやる。
それくらいしか、いまの私にできることがない。
付き添いのふたりは、三歩後ろを静かについてくる。
書庫への渡り廊下は、秋の水明かりで白く光っていた。
本を胸に抱えて歩いていると、廊下の向こうから、書類の束を抱えた人がひとり歩いてくるのが見える。
足が、止まった。
「あら」
柔らかい声も、ゆっくりした足取りも、あの頃のままだった。
肩の下まで流れる、アッシュブラウンのなめらかな髪。蜜のように澄んだ、琥珀色の瞳。アクアニアの装いの上に、中央魔導院の白い羽織。穏やかに整った顔立ちに、控えめな微笑——なにもかも、学院の中庭で初めて会った日のままだ。
セリーヌさん。
学院の、優しい先輩だった人。記録のお仕事をしている人。そして――大潮の夜のあとで、私の力に名前の付く場所を教えてくれた人。あなたが、書くのよ——と言った、あの声の人。
「お久しぶりね、リアネさん」
「……お久しぶりです。セリーヌさん」
「王宮のお勤め?」
「いえ、あの……本を、お返しに」
「そう。偉いのね、ちゃんと自分で」
セリーヌさんは、ふふ、と笑って——私の抱えた本の背表紙を目だけで読んだ。それから、私の三歩後ろのふたりを、同じ目ですっと読んだ。読んだことが分かったのは、たぶん、私だけだと思う。
「お元気そうで、よかった」
「はい。あの、セリーヌさんも——」
「わたしは、いつもどおりよ。お仕事が、少しだけ忙しくなったくらい」
セリーヌさんは、記録のお仕事の人だ。王宮でお見かけするのは初めてだけれど、考えてみれば、不思議なことではないのかもしれない。
「このごろ、府と王宮のあいだで、運ぶ書類が多いの。それで、よく伺うのよ」
私の顔を読んだように、セリーヌさんはそう言って、腕の中の束を少しだけ持ち上げてみせた。
運ぶ書類が、多い。何の書類が増えているのかまでは、仰らなかった。
書類の束を抱え直して、セリーヌさんは歩き出しかけて——それから、思い出したように足を止める。
「そういえば、お支度をなさっているのですって?」
どうして知っているのだろうと思う前に、はい、と答えていた。帰るんです、秋のうちに。そう言った私に、セリーヌさんはあの柔らかい目のまま、ひとつだけ頷いた。
「——お帰りに、なれるといいわね」
それだけ言って、書類の束と一緒に、渡り廊下の向こうへ歩いていった。
なれると、いいわね。
その言い方が、廊下の白い光の中に、いつまでも残った。帰ります、と言った私への返事が——いってらっしゃいでもなくお気をつけてでもなく、なれるといいわね。まるで、なれるかどうかを、私よりよく知っている人の言い方だった。
部屋に戻って、水盤の前に座った。
水を呼んで、待って、帰す。手は勝手に動く。動く手の後ろで、頭はここ半月のことをもう一度、並べ直していた。
船が、少ない。付き添いが、増えた。市が、遠い。テオ様に、会えない。鞄が、納戸にある。そして——なれるといいわね。
並べ終わって、私は、水盤の水面を見た。
見えてきた形の名前を、もう、口にしない訳にはいかなかった。
これは、檻だ。
口に出したら、思ったより、静かな声になった。怒りも涙も、出てこない。ただ、半月ぶん溜まっていた違和感が名前をもらって、すとんと腑に落ちた。
檻なら、見たことがある。
解いたことも、ある。
母様の水を閉じ込めていた、あの封印の檻。石と術式でできていて、力ずくでは決して開かないもの。あれを私は、帰り道を作ることで解いた。閉じ込められているものに、帰っていいよ、と伝えることで。
この檻は、石でできていない。
親切と笑顔と、また今度、でできている。鍵はどこにも見えなくて、扉はいつでも開いているように見える。それなのに、どの方向へ歩いても、優しく元の場所へ戻される。あの封印の檻と、この善意の檻と、どちらが解きにくいか——考えるまでもなかった。
夜、石に指先を置く前に、私は水盤の水をもう一度だけ呼んだ。
呼んで、待って、帰す。
来てくれた水が、するりと帰っていく。帰り道さえあれば、水は必ず帰る。私はそれを、この半年、毎朝この手で確かめてきた。
だったら、私も同じだ。
名前を付けたら、次にすることは、決まっている。怖がることでも、諦めることでもない。
——解き方を、探すことだ。
※noteでも毎朝連載中




