第3話「盾の、内側」②
数日後の夜、アルフォンスは父の書斎に呼ばれた。
この半月、夜半を過ぎても灯の消えなかった部屋だ。入るのは、出立の話が卓に載ったあの夜より、さらに前以来になる。書棚の一角に見慣れない地図が何枚も掛かっていて、父はその前の机で、書き物の手を止めて息子を待っていた。
地図の上には、小さな旗のような印が、いくつか立ててある。どこの地図なのかは、確かめない。確かめたら、まだ誰も口にしていない名前を、自分の目が先に知ってしまう気がした。
「座れ」
「はい」
当主代行の引き継ぎは、短かった。家令に任せる範囲。母上に諮る範囲。おまえが自分で決めてよい範囲。父の言葉は正確で、無駄がなくて、まるで何年も前から用意してあった目録のようだった。実際、用意してあったのだと思う。武門の家は、名前が来る前に支度を終える。
引き継ぎが終わると、父は手元の書き物を脇へ寄せる。
「もうひとつの件だ」
来た、と思った。
「ルミエール公への返答の期限が、近い」
父は、卓に文を載せた夜と同じ、事務の声で話しはじめた。
「先に、家の側の理屈を言っておく。私が出立すれば、この家は当主不在になる。当主不在の武門の家は、戦場よりも、社交の場で狙われる。家格を削ろうとする者。婚姻の話を横から差し込む者。母上とおまえだけで、その全部を受けることになる」
「……はい」
「ルミエール公爵家との結びつきが公示されていれば、話は別だ。光の名門が後ろに立つ家に、横から手を出せる者は、この帝都にはいない。公示は——この家と、母上と、おまえの守りになる」
正しい、と思った。
父の言い分には、どこにも穴がない。家を守る。母を守る。息子を守る。全部が本当で全部が正しくて、正しさがそのまま壁の形をしていた。壁に向かって感情をぶつけても、壁は動かない。それも、アルフォンスは知っている。
ただ——この壁の守る者の列に、入っていない人がひとりいる。
家と、母と、俺。守られる側の名簿は、それで全部だ。あの海の向こうの一人だけが、誰の名簿にも、最初から載っていない。載っていないどころか、この結びつきが固まるほど、あの子の立つ場所は狭くなる。正しさの壁は、内側を守りながら、外側の誰かを少しずつ押し出していく。
「時節の話も、しておこう」
父は、机の上の地図へ、ちらりと目をやった。
「いま、名を言わぬまま動いているものには、順番がある。要求があり、拒否があり——形が固まるのは、その後だ。順番の途中で名を口にすれば、順番そのものが壊れる。だから誰も、言わん」
「……固まったとき、その名は、本当の名なのですか」
訊いてから、踏み込みすぎたかと思った。父は、怒らない。代わりに、短い沈黙をひとつ置いて、言う。
「——公示される大義と本当の理由が、同じであった戦を、私は知らん」
書斎の灯が、小さく音を立てた。
それ以上、父はその話を続けない。続けないことで、いま言えるぎりぎりの場所まで来ているのだと、息子には分かった。
「それで、だ」
父は、椅子の背にわずかに体を預ける。
「おまえに、心に決めた人がいることは、あの席で聞いた。家名を言えぬ相手だ、ということもだ」
真っ直ぐに、目を見られた。
逸らさずに、受ける。この目を逸らしたら、あの言葉ごと嘘になる気がした。
「私は、あの日のおまえの言葉を、忘れておらん。忘れておらんし——取り消させた覚えも、ない」
一瞬、聞き間違いかと思った。
取り消させた覚えも、ない。それは——あの日の「同意していません」がこの家の記録の中でいまも生きていると、父の口から認めた言葉だった。
「だからこそ、だ」
父は言った。
「ルミエール公への返答は、私からは出さん。おまえの口から聞く。当主代行を任せる者の言葉として——次の卓で、おまえが話せ」
部屋に戻る廊下は、暗くて、静かだった。
父は、進めよとも断れとも、言わなかった。正しさの壁を見せて、時節の順番を見せて——それから、場所と機会を卓の上に置いただけだ。
何も、命じられていない。
命じないことの重さを、武門の息子は知っている。命令なら、従うか背くかの二つしかない。だが場を渡された者には、自分の言葉しかない。逃げ場のない自由という物を、父はたったいま、息子に渡したのだった。
胸元の、布越しの小さな硬さに、手を当てる。
次の卓で、話すのは自分だ。話すことは——もう、決まっている。あの日からずっと、言葉は胸の中で同じ形をしている。あとは、あの卓で、口に出すだけだ。
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