第3話「盾の、内側」③
返答の夜まで、三日あった。
三日のあいだ、アルフォンスはいつもどおりに学院へ通い、いつもどおりに鍛錬をして——いつもどおり朝と夜の挨拶を送った。変わったことは、ひとつだけ。胸の中の言葉を、毎晩、磨いたことだ。
言葉は、剣に似ている。長く振り回せば、重さで自分がよろける。短く正確に、一度で届くように——武門の家の子は、剣と一緒にそういう言葉の使い方を教わって育つ。父に届く言葉は、父に教わった形をしているはずだった。
最初の晩、言いたいことを胸の中に全部並べてみたら、十いくつもあった。なぜ勝手に決めるのか、という恨み。ルミエール家のご令嬢ご自身は何と仰っているのか、という問い。俺の言葉を認めてほしい、という願い。
並べたものを、ひと晩ごとに、ひとつずつ消していった。言っても父には届かないもの。言えば自分が楽になるだけのもの。誰かのせいにしているだけのもの。
三日目の夜、残ったのは三つだけだった。この三つは、どうしても消せなかった。消したら、嘘になるからだ。
その夜の卓は、いつもの卓だった。
同じ席順。同じ皿の音のなさ。同じ燭台の火。父は普段と変わらぬ速さで食事を進め、母は普段と変わらぬ静けさで、匙を運んでいた。誰も、今夜が返答の夜だとは、口にしない。
それでも、分かる。
父が最後の皿を終えて、給仕が下がって卓の上が白い布と燭台だけになった時——書斎で渡されたあの場が、いま目の前に整ったのだと。
アルフォンスは、背筋をひとつ、正した。
「——お話ししたいことが、あります」
父が、顔を上げる。母の手が、膝の上で止まった。
「聞こう」
胸の内側の、布越しの小さな硬さが、いつもの場所にある。海の向こうのあの子は、俺がいまから何を言うのかを知らない。知らないままで、いい。これは、あの子のための言葉である前に——俺自身の、言葉だからだ。
短く。正確に。一度で。
「まず、ひとつ。ルミエール家との縁談の席で私が申し上げた言葉を、この卓にもう一度、置き直します」
息を、ひとつ。
「——この婚約に、私は同意していません」
燭台の火が、小さく音を立てた。父の顔は、動かない。動かない顔に向かって、アルフォンスは続けた。
「あの日の言葉は、記録に残りました。取り消していませんし、これからも取り消しません。その上で、公示の件への返答を申し上げます」
「……続けよ」
「公示とは、両家の同意を、内外に示すことです。同意のないものを、あるものとして示すことは——私には、できません。ルミエール公への返答は、否、です」
言い切った。
言い切ってから、最後のひとつが残っていることを、胸の中で確かめた。三日磨いて、これだけは削れなかった言葉だ。削ったら、自分の言葉ではなくなる言葉だった。
「それから——もう、ひとつ」
父の目を、まっすぐに見た。
「この婚約について、ルミエール家のご令嬢ご自身のお気持ちをどなたかが確かめたのかどうかを、私は知りません。父上は、ご存じですか」
母の顔が、初めて、息子の方を向く。
「両家の益の話は、伺いました。家格の話も、時節の話も、伺いました。ただ、この婚約には、私のほかにもうひとり当人がいます。当人の意思を誰も確かめないまま進む話に、私は、否としか言えません。——私が言われて嫌だったことを、あの方に対して、していい理由がないからです」
言葉は、卓の上に置かれた。
三日磨いた言葉の、ぜんぶだった。長さも順番も、磨いたとおりに出せている。声は、思っていたよりも震えなかった。
言えた——という小さな驚きが、一拍遅れてやってくる。縁談の席では、記録に残していただく、が精いっぱいだった。今夜は違う。話す順番を、自分で取って、自分の言葉で話した。訊かれるのを待つのでも、記録に残るのを願うのでもなく。
卓の上の燭台の火だけが、ゆらりと一度、大きく息をした。
父は、まだ何も言わない。
母も、何も言わない。ただ、膝の上で止まっていた母の手が、いつのまにかそっと組み直されていた。
沈黙が、卓の上で長くなっていく。
その沈黙の重さを、アルフォンスは逃げずに受けていた。命令なら、従うか背くかで済む。だが自分の言葉には、自分で立ち続けるしかない。場を渡されるというのは、こういうことだ。
誰も、まだ、動かない。
言葉だけが、白い布の上で、燭台の火に照らされている。
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