第3話「盾の、内側」④
沈黙は、長かった。
燭台の蝋が、目に見えて短くなるほどの長さだった。アルフォンスは、卓の上に置いた自分の言葉と一緒に、その長さを受け続ける。逃げない、と決めていた。言った者の仕事は、言った後に立っていることだ。
沈黙のあいだ、父は腕を組みもせず、目を閉じもしなかった。ただ、息子の顔を見ていた。値踏みの目ではない。武具を検分する目とも、違う。強いて言えば——遠くのものを見る目だった。息子の顔の上に、別の誰かの顔を重ねて見ているような、そんな目だ。
やがて、父が口を開いた。
「——聞いた」
それだけだった。良いとも悪いとも、進めるとも退けるとも、言わない。ただ、聞いた。
「ひとつ目とふたつ目は、あの縁談の席から、変わっておらんな」
「はい。変わりません」
「三つ目は」
父はそこで、わずかに間を置いた。
「——今夜、初めて聞いた」
「三つとも、家の益の話では、なかったな」
それ以上、父は何も言わない。言わなかったが、三つ、と数えられていた。息子の言葉は、ひとつも聞き流されずに、全部数えられて卓に載っている。武門の卓で、それがどれほどのことか、アルフォンスは知っている。
父は立ち上がり、扉へ向かいながら、控えの給仕に短く言った。
「アルフォンスに、杯を」
父が去った卓に、母とふたりで残された。
給仕が、盆に杯をひとつ載せて戻ってくる。細工の入った銀の杯だった。祖父の代から伝わる形で、この卓では、当主である父の席にだけ置かれてきた杯だ。それが、息子の席の前に、静かに置かれる。
言葉への返事は、なかった。代わりに、杯が置かれた。
この家の返事は、いつも、こういう形をしている。
杯を見つめていると、母が水差しを取った。葡萄酒の壜ではなく、水差しを。そして息子の杯に、澄んだ水を、ゆっくりと注いだ。
「……母上」
「お父様は、杯を許されました。わたくしは、中身を決めただけです」
母は、それだけ言って、水差しを置く。置いてから、ほんの少しだけ、口元をやわらげた。
「——おまえはまだ、十四ですから」
卓に載らなかった言葉が、その一言の下に、いくつも畳まれている気がした。子守唄の頃から、この人はずっと、言葉より先のところで息子と話してきた人だ。アルフォンスは、はいと答えて——水の杯を両手で持ち、一息に飲んだ。
冷たい水が、胸の奥まで、まっすぐに落ちていく。
それから数日、屋敷はいつもどおりに動いた。
学院では、セドリックに、なんか顔つき変わったなと言われた。変わったかどうかは、自分では分からない。ただ、朝の鏡の中の顔が、この頃は逸らさずにこちらを見る。それだけは、確かだった。
ルミエール公への返答を、父がいつどの言葉で出したのかを、アルフォンスは知らされていない。ただ、公示の話は、あれきり卓に載らなくなった。載らないまま、出立の支度だけが、正確に進んでいく。
何も、勝ち取ってはいない。
婚約は、まだそこにある。公示の件も、消えたのではなく、父の手の中のどこかで止まっているだけだろう。世の中は、ひとつも動いていない。
それでも、と夜の自室で、胸元の布越しの硬さに手を当てて思う。
俺はもう、言わなかった俺には、戻れない。
戻れないところに立つこと。それがたぶん、始める、ということだ。海の向こうのあの子が帰る場所を決めたあの夜も——きっと、同じ場所に立ったのだと思う。
翌朝も、挨拶はいつもどおりに来た。いつもどおりの小さな灯の中に、あの子の毎日がある。自分の言葉が世の中を動かせるようになる日まで、この灯だけは、一日も欠かさず守る。それが、いまの俺にできる、いちばん確かなことだ。
——その夜より、ひと月あまり前。まだ夏の盛りの頃のこと。
帝国の学院の特待生の寮に、主が海の向こうへ渡ったまま戻らない部屋が、ひとつある。
部屋には、いまも時どき、窓を開けに人が来る。学院長の指図で、掃除の手が絶えないのだ。小さな机の上は、主がいつ戻ってもいいように、いつも拭き清められている。
ただ——その机の引き出しだけは、誰も開けない。主の私物に手を触れないことも、指図のうちだからだ。
誰も開けない引き出しの奥で、小さな氷のかたちがひとつ——盛夏の暑さの中、そっと水に返っていた。
置いていった主は、それを知らない。贈った人だけが、それがいつ消えるかを、最初から知っていた。
秋の光の頃には、引き出しの奥に乾いた跡だけが残った。その上で机は、今日も、拭き清められている。
※noteでも毎朝連載中




