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第4話「名前の、ついた日」①


その朝は、鐘の音で始まった。


朝の挨拶を送って、受け取って、身支度を済ませた頃——都のどこかで聞いたことのない鐘が鳴りはじめる。低くて、重くて、間隔の長い鐘だった。祝いの鐘なら、高く速く鳴る。時を告げる鐘なら、決まった数で止まる。この鐘は、どちらでもなかった。低いまま、重いまま、いつまでも止まらない。


窓辺に立って、水路を見下ろした。


舟が、止まっている。漕ぎ手たちが櫂を止めて、みんな同じ方向——王宮の方を、見上げている。橋の上にも、人が立ち止まったまま、動かない。都全体が、鐘の音の下で、息を止めているみたいだった。


橋の上の人たちが、ひとりまたひとりと、帽子を取っていくのが見えた。誰かに号令をかけられたのでもなく、順々に。脱いだ帽子を胸に当てて、みんな、同じ方向を向いたまま立っている。


なにかが、あったのだ。


朝食の膳を運んできた女官の人は、いつもどおりに、おはようございますと言ってくれた。いつもどおりの言葉なのに、声が、ほんの少しだけ掠れていた。目のふちが、赤い。


「あの、なにか——」


「なんでも、ございません」


なんでもございません、と言う時の目を、私はもう知っている。この半月で、たくさん見てきた目だ。それ以上は訊かずに、ありがとうございますと膳を受け取った。訊いても、この人を困らせるだけだと分かっていたからだ。


鐘は、まだ鳴っている。




昼前に、廊下の外が少しざわめいた。


扉が開いて、入ってきたのはヴィルフリート様だった。


驚く。あの書斎から、こちらへ来てくださったのは初めてだ。付き添いも連れず本も持たず、ただ一枚の紙挟みだけを手にして、ヴィルフリート様は扉のところで深く息をひとつ整えた。


氷青の銀の髪も、音のない足取りも、いつもと同じだ。同じなのに——あの朝、優しさの奥がまるで読めなかったこの方の顔から、今日は、隠しきれないものがはみ出している。


その顔を見た瞬間に、分かってしまった。


なにかがあった、ではない。なにかが、始まったのだ。


「……リアネさん」


ヴィルフリート様は、私の名前を呼んだ。それから、椅子を勧められる前に自分から窓辺の椅子の方へ歩いて、私にも座るように手で示した。


「お伝えしなければならないことが、あります。本来なら、私の役目ではない。あなたの耳に入れるなという声も、この王宮には、ある」


「……はい」


「それでも、来ました。知らされないまま守られることが人をどうしていくのか——この半月のあなたを見ていれば、分かります。あなたに隠しごとをする側に、私は立ちたくない」


座ってください、ともう一度言われて、私は座る。膝の上で、手を重ねた。重ねた手の下で、指先が冷たくなっていくのが分かった。


ヴィルフリート様は、私の目をまっすぐに見る。あの書斎で「船は、ある」と言ってくださった時と同じ目だった。この人は、この目をする時、嘘をつかない。


「今朝、未明——」


鐘の音が、窓の外で、低く続いている。


「帝国が、この国に対して、開戦を布告しました。……戦が、始まりました」





戦。


その言葉をヴィルフリート様の声で聞いた瞬間、最初に思ったのは、変なことだった。


——ああ、この言葉、ずっと誰も言わなかった。


船が減って、付き添いが増えて、市が遠くなって——扉の外に気配が立って。この半月、私のまわりで起きていたことぜんぶに、誰もひとつも名前を付けなかった。時節柄。物騒な噂。また今度。名前のない言い方ばかりが、丁寧に積み上がっていった。


その積み上がったものの上に、いま、名前が置かれた。


戦。


たった一文字の名前が置かれた途端に、半月ぶんの名前のないものが、ぜんぶ一斉に同じ顔でこちらを向いた。


「……あの」


自分の声が、遠くから聞こえた。


「帝国と、この国が……どうして、ですか」


ヴィルフリート様は、すぐには答えない。膝の上の紙挟みに、一度だけ目を落とした。それから、顔を上げて、言う。


「その問いに、あなたの前で答えを濁すことは、私にはできません。……理由を、お読みになりますか。あなたには、読む権利がある。ただ——」


紙挟みを持つ手に、力がこもるのが見えた。


「——読めば、傷つきます。それでも、と仰るなら、お渡しします」


窓の外で、鐘の音が、鳴り続けている。


私は、膝の上の手を、ひとつ握り直した。


怖い。読むのは、怖い。けれど、名前のないものに囲まれて過ごしたこの半月の方が、本当はずっと怖かった。名前は、怖くても、掴める。掴めるものからしか、道は探せない。


「……読みます」





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