第4話「名前の、ついた日」②
紙挟みの中には、紙が二枚、入っていた。
「一枚目は、帝国の布告の写しです。今朝、諸国へ向けて公示されたもの」
受け取る指先が、うまく動かなかった。紙は、上等で、硬かった。開戦布告、という文字が、頭の上に大きく刷られている。その下に、事務の言葉が並んでいた。
——帝国は、アクアニア王国に対し、以下の理由により開戦を布告する。
——一。我が国の学徒たる娘一名が、アクアニア王宮において不当に拘留されていること。
——一。当該の娘の返還を求める再三の要求に対し、アクアニア王国が誠実な回答を行わなかったこと。
——一。国境流域の水利および治水の理の供与について、アクアニア王国が帝国の正当な要請を長年にわたり拒み続けていること。
その先は、目が滑って、入ってこなかった。二つ目までで、手の中の紙が急に重くなったからだ。
学徒たる、娘一名。
返還を求める、再三の要求。
「……あの」
声が、掠れた。
「返還って……要求が、あったのですか。私を、返してほしいという」
「ありました。夏の終わりから、幾度も」
ヴィルフリート様は、隠さずに答えてくださる。
「そして、この国は、断り続けました。あなたに伝えないまま」
知らなかった。要求があったことも、断っていたことも。海の向こうから私を呼ぶ声が幾度も来ていて、この王宮の中のどこかで、幾度も断られていた。そのあいだ私は、船の便を調べてもらえずに、待っていた。
「二枚目を、お見せします。……こちらは公示ではない。この王宮の中で回された、内々の通達です。本来、あなたが目にすることは、決してないはずのものだ」
二枚目の紙は、一枚目より薄くて、判が多かった。
——深海の魔女の娘の処遇について。
一行目で、息が止まった。
——保護の強化。外出は当面、宮内に限ること。
——外部との接触は、従前の許可制を維持すること。
——船便の照会には、当面、便なしと回答すること。
便なしと、回答すること。
その一行を、私は、何度も読んだ。何度読んでも、同じことが書いてあった。
女官の人の、申し訳なさそうな眉。時節柄、荷のお船ばかりで。次の良いお便が分かりましたら、すぐ。あの優しい声は、この一行を、声にしたものだった。嘘をついていたのは、あの人じゃない。あの人は、命じられたことを命じられたとおりに、丁寧にやっただけだ。
ヴィルフリート様が、あの書斎で仰ったとおりに。
一枚目の紙に、目を戻す。学徒たる、娘一名。二枚目の紙の、一行目。深海の魔女の、娘。
ふたつの紙の、ふたつの呼び名が、同じひとりを指している。
——私だ。
この戦の、まんなかに置かれているのは、私だ。帝国が返せと言っているのも。この国が渡さないと決めているのも。鐘が鳴っているのも。橋の上で人々が帽子を胸に当てていたのも。——ぜんぶ、この、私だ。
部屋が、遠くなった。窓も水の音も、鐘の音さえも薄い膜の向こうへ下がっていって——膝の上の二枚の紙だけが、おそろしく近い。
「……どうして」
膝の上の紙が、小さく音を立てた。手が、震えていたからだ。
「どうして、誰も、私に訊かなかったんですか」
声が、途中から、自分のものでなくなった。
「帰りたいかどうか。返してほしいと言われていること。断っていること。戦になるかもしれないこと。ぜんぶ、ぜんぶ——私のことなのに。どうして、私にだけ、誰もひとことも、訊いてくれなかったんですか」
泣いては、いなかったと思う。涙は、出なかった。泣くところまで、心が追いつかなかったのだ。
ヴィルフリート様は、目を逸らさなかった。
長い沈黙のあとで、静かに言った。
「……すまない、とは言いません。ここで私が謝れば、私も、謝って済ませる側に並ぶだけだ」
膝の上で、紙が鳴っている。
「——その問いは、正しい。誰も、その問いから逃げてはいけなかった。この王宮も。……私自身もです」
それから、ヴィルフリート様は少しだけ声を低くして、続けた。
「ひとつだけ、覚えていてください。この王宮で、あなたに紙を渡した人間が、ひとりいたことを。あなたには知る力があると信じた人間が、ひとりいたことを」
はいとも、ありがとうございますとも、言えなかった。言えないまま、私は二枚の紙を、胸に抱えるように持っている。
少し落ち着いてから、ヴィルフリート様は、一枚目の紙の三つ目の行を指で示した。
「……お伝えすべきことが、もうひとつあります。帝国が欲しがっているのは、あなただけではない。——水です」
「水……」
「帝国の南の平野は、この十年、日照りが続いている。井戸が涸れ、川が痩せて、麦の穫れ高が年ごとに落ちている。水を呼び、水を蓄え、水を配る——この国の治水の理を、帝国は長いあいだ欲しがってきました。売ってほしい、教えてほしいと。この国は、断り続けた。水の理は、この国の骨格そのものだからです」
だから、布告には二つの顔があるのだと、ヴィルフリート様は言った。娘の返還という顔と、水の理という顔。
私は、膝の上の紙を見た。
娘と、水。並んだ二つの要求は、別々の顔をしている。している、けれど——私は知っている。母様から私に流れてきたものは、深いところから水を呼ぶ、まさにその理そのものだ。帝国の欲しがっている二つは、たぶん、別々のものではない。
この半年、この王宮の人たちは、みんな優しかった。優しくて——誰ひとり、私に本当のことを教えてくれなかった。子どもに心配をかけないように、悪い報せから遠ざけるように。守るというのは、そういうことだと、みんなが信じていた。
ヴィルフリート様だけが、今日、紙を渡してくれる方を選んだ。読めば傷つくと分かっているものを——傷つく覚悟ごと私に任せて、渡してくれた。それはたぶん、私をひとりの大人として扱ってくれた、ということなのだと思う。
生まれて初めて大人として扱ってもらえた日が、いちばん痛い日になった。
窓の外で、鐘は、まだ鳴っている。
朝には、名前を知らない鐘だった。いまは、知っている。
あれは、私の名前で鳴っている鐘だ。
二枚の紙。あれは、私の名前で鳴っている鐘でした。
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