第4話「名前の、ついた日」③
帝都の朝は、太鼓の音で始まった。
触れ役の太鼓が大通りを進み、辻ごとに止まっては、同じ文言を読み上げていく。屋敷の門前にも、朝のうちに新しい掲示が貼られた。学院へ向かう馬車を待つあいだに、アルフォンスはそれを読んだ。
開戦布告の写しだった。
——一。我が国の学徒たる娘一名が、アクアニア王宮において不当に拘留されていること。
学徒たる、娘一名。
その一行の前で、目が止まって、動かなくなった。
名前が、書かれていない。
帝国じゅうに貼り出されたこの紙のどこにも、あの子の名前はない。
名前のない娘のために、国じゅうの家から召集の文が出て、兄たちの装具の寸法が測られ——父の書斎に地図が掛かった。
名前を消したまま、名前のために、戦争が始まった。
この一行の娘の名前を、帝都でいったい何人が知っているだろう。
少なくとも、ひとりは知っている。瓶底眼鏡の、井戸端の、亜麻色の髪のあの子だ。世界中が「娘一名」と呼ぶ人の、名前も声も——水の呼び方も湯気の向こうの笑い方も、俺は知っている。
掲示の前で、小さな女の子が母親に訊いていた。むすめって、だあれ。母親は、さあ——どこかのお嬢さんよと答えて、子の手を引いて人ごみへ戻っていった。
どこかの、お嬢さん。それだけの言葉で、戦争は始められるのだ。
街は、奇妙に明るかった。
大通りの人だかりは、触れ書きの前で声を潜める。潜めるくせに、その声のどこかに、抑えきれない熱が混ざっている。
——水が、来るぞ。
——南の畑が、生き返る。
聞こえてくるのは、そんな声だった。布告の三つ目——水利と治水の理の条文が、人々の胸で、いちばん熱く燃えているらしい。十年の日照りの国で、水は、命の別の名前だ。誰かの娘の話より、自分の畑の水の話の方が、腹に近い。責められることでは、ないのかもしれない。
それでも、とアルフォンスは思う。
この人たちの夢見ている水の理のいちばん深いところにいるのが、あの「娘一名」だということを、この街の誰も知らない。人々は水を夢見て、王は名前のない娘を求め——そのふたつが同じひとつのものであることを、知っている者だけが黙っている。
学院の中庭で、セドリックが隣に座る。
「……兄貴、明日発つってさ」
タルトの包みは、今日は開かれなかった。ふたりで、しばらく黙って、騒がしい空を見ていた。
「なあ、アル。俺さ、昨日まで、戦って言葉、どっか遠くの話だと思ってた」
「……ああ」
「兄貴の装具が玄関に並んだの見たら、急に、家の中の話になった」
セドリックは、それきり軽口を言わない。言わない横顔を、初めて見る気がした。
屋敷に戻ると、玄関の間に、父の出立の荷が並びはじめていた。
書斎の扉が開いていて、あの地図が、壁から外されて筒に納められていくのが見える。旗の印の立った地図。確かめなかった名前の地図。もう、確かめるまでもない。あの旗の立っていた場所へ、父は行く。
廊下で、母とすれ違った。
母は、何も言わない。ただ、すれ違いざまに一度だけ立ち止まって、息子の顔を見た。あの卓の夜、初めてこちらを向いた時と同じ目だった。何かを言いかけて、言わないまま、母は荷の並ぶ玄関の方へ歩いていく。
父の出立は、三日後と決まった。見送りに立つ朝、自分が何を言うのか——言えるのか。それだけが、まだ決まらない。
この家は、言葉が少ないのではない。言葉より確かなものだけを、選んで置いていく家なのだ。父の杯のように。母の水のように。
夜、自室の窓辺で、胸の奥をひとつ確かめる。
今朝の挨拶は、いつもどおりに届いていた。いつもどおりの、小さな灯だった。
あれは、知る前の灯だったのだろうか。それとも、もう知っていたのだろうか。海の向こうのあの子が今日という日をどんな顔で過ごしたのか、この胸の奥の灯からは、分からない。分からないことが、今日はじめて、こんなにも苦しい。
やがて——夜のひとつが、届いた。
いつもどおりの時刻に。いつもどおりの、小さなひとつ。
アルフォンスは、布越しの硬さの上に手を置いて、長いあいだ動けなかった。あの子は、送ってきた。今日が、どんな日であっても。何を知った日であっても。夜のひとつを、いつもどおりに。
だったら、俺も送る。
——リアネ。
声に出しても誰にも届かない部屋で、名前を呼んだ。今日、帝国じゅうの紙が娘一名と呼んだ人の、名前だ。名前を消された人の名前を、俺は知っている。知っているのに、口に出せる場所が、この部屋の中にしかない。
会いたい。
会いたい、とは送らない。この灯は言葉を運ばない。運ばないし——たとえ運べたとしても、送る資格が、今日の俺にはない。
あの子が海の向こうで閉じ込められている理由を作っているものの一つが、俺の国だ。俺の父が発つ海で、俺の家の名が並ぶ布告で、あの子は娘一名と呼ばれている。その国の嫡男が、会いたいと言う。
言えるはずが、なかった。
指先に、今日のぶんの灯をひとつ、灯す。いつもどおりの大きさで。いつもどおりの明るさで。
——また、朝に。
戦の始まった日の夜に、海のこちらとあちらで——いつもどおりの言葉だけが、いつもどおりに灯った。




