第4話「名前の、ついた日」④
夜、水盤の前に座った。
ヴィルフリート様が帰られてから、夕方までのことを、あまり覚えていない。
膳は来て、下げられた。鐘は、日暮れ前にようやく止んだ。
止んだ後の静けさの方が、鐘の音より大きく聞こえた。
二枚の紙は、ヴィルフリート様にお返しした。
お返しする時、一枚目の「学徒たる娘一名」のところを、もう一度だけ見ている。
名前のないこの娘に、いつか、名前を返してもらう。そんなことを、思いながら。
水を、呼ぶ。待つ。帰す。
手は、今日も勝手に動いてくれた。母様の手つきは、こんな日でも、私の手の中にいてくれる。
三度目を帰し終えた頃、ようやく、頭の中で言葉が並びはじめた。
私の名前で、戦が始まった。
その言葉を、水盤の水面に置くように、ゆっくり考えてみる。怖い。
今も怖い。でも、昼間とは少しだけ、怖さの形が変わっていた。
昼間は、ただ怖かった。
いまは——申し訳ない。
橋の上で、帽子を胸に当てていた人たちのことを、考えてしまう。
荷車を引いていた人。触れ書きの前で口が重くなっていた人。
あの人たちは、私の名前を知らない。知らないまま、明日から、戦の中で暮らす。
謝りたい。
でも、誰に謝ればいいのかも、わからない。橋の上のあの人たちに、私です、と名乗って回るわけにもいかない。名乗ったところで、何ひとつ、戻せない。
わからないまま、ひとつだけ、思うことがある。
始まりに私の名前が使われたのなら、終わりにも、使えるかもしれない。どんな道なのかは、まだ全然わからない。でも、探しはじめることなら、今夜からできる。
半月前、この暮らしに、檻という名前が付いた。あの夜の私は、解き方を探す、と決めている。
今夜、この日々に、戦という名前が付いた。だったら、することは同じだ。
終わらせ方を、探す。
石に、指先を置く。
今日がどんな日でも、夜のひとつは送る。そう決めている。
この小さな習慣だけは、王宮にも戦にも、誰にも渡さない。私の暦は、私のものだ。
——おやすみなさい。また、朝に。
三日後の朝、帝都の盾の家の玄関前に、馬が並んだ。
出立の見送りは、武門の型のとおりに進んだ。家令が列を整え、母が父の外套の襟を一度だけ直し、父は誰の顔も長くは見ずに革手袋を締める。言葉の少ない家の、言葉の少ない朝だった。列の端に、ハンスの姿もある。深く下げた頭を上げた時のその顔は、いつもの顔だった。こんな朝にいつもの顔でいてくれる人がいることが、思いのほか、支えになった。
馬上の人となる直前に、父が息子の前で足を止める。
「当主代行、頼んだ」
「はい」
それだけで、父は行くつもりだった。行かせる前に、アルフォンスは三日のあいだ決められなかった言葉を——結局削りも磨きもしないまま、そのまま口に出した。
「父上」
父が、振り向く。
「——盾は、守るものです」
沈黙が、ひとつぶんだけ、あった。
攻める戦の先頭に立つ人へ、武門の嫡男が言っていい言葉の、たぶんぎりぎりの外側だ。分かっていて、言った。言わずに見送ったら、あの卓で言った俺が、嘘になる。
父は、怒らなかった。目だけで息子を見て、それから、短く言う。
「——盾の家の者が、それを忘れた日はない」
馬上の人になって、父は行った。振り返らない。振り返らない背中が、この家の当主の出立だった。門の外へ列が消えるまで、母は背筋を伸ばしたまま動かずにいた。
その夜から、書斎の灯を点けるのは、アルフォンスの仕事になる。
父の机は、綺麗に片づいていた。地図の外された壁に、日に焼けた四角い跡だけが残っている。当主代行の最初の夜は、その四角い跡を長いあいだ見上げることから始まった。
夜の報告に来た老家令が、帳面を閉じてから、ひとつだけ付け足す。
「旦那様が、お発ちの朝に申されました。……盾を守るものと言える者にしか、この家は渡せん。それだけ、伝えろ、と」
家令が下がった後の書斎で、アルフォンスは、しばらく動けなかった。
この家の返事は、いつも、言葉の形をしていない。あの卓の夜、父は何も言わずに、当主の杯を息子の席に置かせた。母は何も言わずに、その杯へ水を注いだ。そして今夜の返事は、家令の口伝てで、三日遅れて届いた。
言葉の代わりに、確かなものだけを置いていく。それがこの家のやり方で——不便で遠回りで、それでも、届くものはちゃんと届く。
胸の奥で、夜のひとつが届く。
いつもどおりの時刻。いつもどおりの、小さなひとつ。海の向こうの、名前を使われた人が、それでも今夜も送ってくれたいつもどおり。
俺も、返す。
——また、朝に。
名前のついた世界で、名前のある約束だけが、今夜も変わらずに灯っている。この灯の届く限り、まだ、何も終わっていない。何もかもは、むしろ——ここから始まるのだ。
※noteでも毎朝連載中




