第5話「一年目の、冬」①
水の都に、冬が来はじめた。
朝の水路の面に、うすい湯気が立つようになる。水が空気よりぬるい季節がこの都の冬なのだと、女官の人が教えてくれた。都の人たちはこの湯気を、水の息、と呼ぶらしい。冬のあいだじゅう、都は自分の息の中で暮らすのだ。
開戦から数えて、季節がひとつ動いたことになる。世の中はいつのまにか、その暦で数えはじめている。開戦の秋。一年目の冬。……私の暦は、いまも灯の数のままだけれど。
湯気の立つ水路を見下ろしながら、指を折って、季節をかぞえる。
夏の終わりの、決めた夜。秋の、鐘の鳴った日。それから——秋の、あの日。
アルフォンス様の、お誕生日。
忘れるはずが、なかった。
一年前の私は、あの日のために、ひと晩かけて贈り物をこしらえている。
誰にも見られない真夜中に、眼鏡もブレスレットも初めて自分から外して——月の光の下で作った、たったひとつの雫。手のひらにのる小さな包みを、耳まで赤くなりながらセドリック様に託した。誕生日というものは当日のうちに祝われるから誕生日なのだと、セドリック様が教えてくれたのも、あの日だ。生まれた日を私が覚えている人は、家族のほかには、世界にひとりしかいない。
だから今年も、朝から、落ち着かなかった。
覚えている。ずっと、覚えていた。ひと月前から、指折りかぞえて、その日が近づいてくるのを見ている。見ていて——そして、分かってもいた。今年の私に、できることが何もないことを。
市には、もう出られない。贈り物をこしらえる材料も、買いに行けない。手紙は、出せない。会いには——行けない。鐘と触れ書きと二枚の紙の秋のそのまんなかで、私は檻の中にいて、アルフォンス様は海の向こうにいた。
当日の朝、私にできたのは、たったひとつだった。
朝の挨拶の灯を、ひと呼吸ぶん、長くすること。
一年前の冬の朝、アルフォンス様が私にくださったのと、同じ形。言葉はひとつも載らない、ひと呼吸の長さだけの、おめでとう。それを送って、それで、私の祝いは全部だった。
去年は、手のひらの上の小さな包みを、渡せた。
今年は、指先ひとつの灯を、送るだけ。
夜、水盤の前でそのことを思い返すたび、胸の奥が軋む。忘れたのではない。手を抜いたのでもない。祝う気持ちは、去年よりもっとずっと大きくなっているのに——祝いの形だけが、手渡しから灯ひとつまで痩せてしまった。
去年の私には、あったのだ。贈り物をこしらえる真夜中が。託す相手に会いに行ける昼下がりが。包みを手渡すときの、あの心臓の音が。
今年は、どれも、ない。あるのは指先の灯ひとつと、海ひとつぶんの、遠さだけ。
アルフォンス様は、どんな誕生日を過ごされたのだろう。
盾のお家のことは、私などには、何も分からない。分からないけれど——きっと、大変な秋でいらしたのだと思う。誕生日どころでは、なかったのだと思う。それでも、ハンスさんはきっと、覚えていたと思う。何も言わずに、その日の濃い紅茶をほんの少しだけ丁寧に淹れて、いつもの顔でいつもの席に置いて。そういう祝い方を、あの家の人たちは、するのだと思う。
そして私のひと呼吸長い灯を、アルフォンス様は、受け取ってくださっただろうか。
一年前の冬の朝、私が分かってしまったのと同じように——分かって、くれただろうか。訊く手立てはない。ないけれど、あの朝の返しの灯は、心なしかいつもよりそっと丁寧だった。そしてその夜に届いた夜のひとつも、ほんのすこしだけ、長かった。……気のせいではないと、思っている。アルフォンス様は、ああいうことに、気づかない方ではないから。
指折りの手を、水路の湯気の上で、止める。
もうすぐ、今度は、私の誕生日が来る。
冬のはじめ。十四になる。去年の今ごろの私は、明日が怖くて期待するのが怖くて、それでも指折りかぞえてしまっていた。何もない放課後があんなにあふれるなんて、まだ知らなかった頃の私だ。
今年は、どんな誕生日になるのだろう。
期待は、しない。檻の中の誕生日に、期待のしかたが分からない。ただ、ひとつだけ、分かっていることがある。海の向こうから、朝いちばんに、ひと呼吸長い灯が来る。それだけは、何があっても来る。
来年こそ、と、水の息の中で思う。
来年こそは当日に、会って、両手で渡す。祝いの形を、戦から、ぜんぶ取り返す。それも私の「終わらせ方」の、小さなひとつの理由になった。
会えない誕生日の祝い方は、灯をひと呼吸長くすること、それだけでした。
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